天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

死を詠む(19)

向日葵

  死は我の一生(ひとよ)の伴侶 ラッセラッセラッセラッセ
  跳人(はねと)踊る影              高野公彦


  待つてゐる死の影あらむその影のかれから行かばこれから行かむ
                         高野公彦
  死にたれば次の小鳥をすぐに飼ふこの世の秋のただに明るき
                        大橋智恵子
  死なずともよくなりたるを首垂れて復員の日の向日葵の花
                         波汐國芳
  ほとばしる青葉若葉のいのち濃しさねさし相模ここに父死す
                        一ノ関忠人
  ああ死ぬと思ひながらに堕ちゆくは思ひやるだに身のひきしまる
                        浜田蝶二郎
  日曜日いくつ過ごしてわたくしは死ぬのだらうか ただただに雨
                         永井陽子
  散るから桜 死を見詰めて生があり風のひとひら掌(てのひら)にこぼれる
                         光本恵子


一首目の跳人(はねと)とは、青森ねぶた祭りにおける「踊り子・踊り手」を意味する。跳人とその影を見て上句の感懐を得たのである。二首目は難解。死に瀕している人を訪ねようと思っているのか?
浜田蝶二郎の感覚は分かる気がする。例えば間一髪、事故を免れた時に抱く感覚である。永井陽子は、晩年に肝炎で入院したが、退院の後三か月ほどして亡くなった。自殺らしい。この歌も暗鬱である。