天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

悪夢

 ひどい夢を見た。すばらしい歌ができたのに、いざ披露する段になって思い出せず苦しんでいるのだ。苦しんだあげく目がさめてできたのが次の歌。
   蹴飛ばせる石あたりたるお大師の銅像黒き秋ふかみかも

さて昨日の続き。
        田一枚植て立去る柳かな
結句の「かな」で切れているだけなので、田を植えたのち立ち去ったのは柳、という語順になっている。こんな実景はないので、幻影である。実景は、田の畦に柳がそよいでいる。百姓が田を一枚植え終わったのを見届けて私(芭蕉)は、柳のある畦を離れて立ち去った、ということ。
あるいは、田一枚植えて立ち去ったのは百姓でもよく、それを私(芭蕉)は、柳の傍で見ていた、という解釈でもよかろう。その意味では、
        田一枚植て立去る
        柳かな
とか、
        田一枚植て
        立去る
        柳かな
のように、一句に二箇所あるいは三箇所に切れがある。
 同様に、
        水の奥氷室尋(たづぬ)る柳かな
これも水源にある氷室を尋ねたのは柳のように読める。もちろん幻影である。私(芭蕉)が氷室を訪ねたのであり、そのあたりに柳が生えていたのだ。
この句の実景上の切れの構造は、
        水の奥
        氷室尋る
        柳かな
と三箇所になる。あるいは、
        水の奥(の)氷室尋る
        柳かな
と「の」を補って、二箇所の切れとしてもよい。
 しかし、文法的な構造からは、どうみても主人公は、いずれも柳なのだ。実景に幻影を添わせる手法といえよう。先にあげた例句の中から同類の句を次に抜き出しておく。
        愚にくらく棘をつかむ蛍かな
        さまざまの事おもひ出す桜かな