天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

流鏑馬

鶴岡八幡宮のポスターより

 やぶさめは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式を意味する。馬上における実戦的弓術の一つとして平安時代から存在した。
犬追物、笠懸とともに騎射三物と呼ばれた。記録ではもっぱら神事の奉納武技とされている。吾妻鏡には鎌倉鶴丘八幡宮の祭礼に奉納した流鏑馬のことが出てくる。文治3年(1187年)8月15日鶴岡八幡宮放生会に際して、源頼朝流鏑馬を開催したことに始まるとされる。今年も、9月15日の秋の例大祭に続いて16日に流鏑馬神事がとり行われた。


     流鏑馬の姿麗し蝉しぐれ
     的を射て歓声あがる残暑かな
     みんみんや馬場ひき返す騎手の空
     流鏑馬の馬耳東風やつくつく師
     敗蓮の池に歓声届きけり
     植ゑ替へし銀杏切株根づきたり
     蛇穴に入らむと参道よぎりけり


  西行が頼朝に進言せしといふ例大祭の後の流鏑馬



[参考]『吾妻鏡』によれば、文治二年八月十五日のこととして、
  西行が鎌倉に立ち寄った際、源頼朝に招かれて「歌道並びに
  弓馬の事に就いて」尋ねられた。中でも「弓馬の事に於いては
  具に以てこれを申す。即ち俊兼をしてその詞を記し置かしめ給う。
  縡終夜に専らせらると。」と書かれている。これが流鏑馬
  ことだろうと推測される。そしてちょうど一年後の文治3年
  (1187年)8月15日の項には、鶴岡八幡宮放生会に際
  して開催された流鏑馬の模様が詳しく書かれている。