落首(2/2)
臣(おみ)の子の 八重の紐(ひも)解(と)く 一重(ひとえ)だに
いまだ解かねば 御子(みこ)の紐解く
[直訳]臣下の私が、自分の紐を一重すらも解かないのに、御子は御自分の紐をすっかりお解きになっている。
[解説]
臣ノ子が、八重に結わえられた紐、つまり極めて複雑な難題を、いまだに一つとして解けないでいるが、それなら、御子が解くこととなろう・・・という。御子を大海人皇子のこととすれば、臣ノ子とは、大友皇子を支えている蘇我赤兄ら腹心のこととなろう。いずれ大海人皇子が解決するというのである。
赤駒の い行き憚(はばか)る 真葛原(まくづはら) 何の伝言(ことづて)
直(ただ)にし良けむ
[直訳]赤駒が行きなやむ葛の原、そのようにまだるこい伝言などなされずに、直接におっしゃればよいのに。
[解説]
葛の生い茂った原に足を踏み入れては、駿馬(しゅんめ)の赤駒といえども進みようがないように、簡単には進まない、つまり伝わっていかない人を介しての伝言などに頼らずに、知らぬ間柄でもないので、直接いうてくればよろしかったのに・・・という。
額田王が大海人皇子に窮状を報せては、善処を頼むにあたり、赤駒つまり蘇我赤兄や安麿あたりを介して頼んだために、一向に進まない、密使でも仕立て、直接いうてくればよかったのに・・・というのであろう。
翌年(西暦六七二年)生起した壬申ノ乱(じんしんのらん)後、額田王は天 武天皇のもとへ身を寄せ、暮らすようになるが、不如帰(ほととぎす)の名を尋ねられたのが縁で、幼い弓削皇子(ゆげのみこ)を知り、《いにしへに・・・・》の一首を詠む。二十年後《み吉野の・・・・》の歌を額田王より受けたのを最後に弓削皇子は夭折(ようせつ)した。
もう一例として、光仁天皇が即位するのを予言して歌われた風刺的な童謡(わざうた)をあげておこう。『続日本紀』 に記載されている。
葛城の 寺の前なるや 豊浦の寺の
西なるや 榎 (え)の葉井(はい) に
白玉沈くや ま白玉沈くや
おおしとと おしとど
しかしてば 国ぞ栄えむや 我家らぞ
富せむや おおしとと としとんど
おおしとんど としとんど
[注]以上は、webの「バックナンバー 万葉散歩」nippon-shinwa.com/
bmanyo_17.htmlから引用させて頂いた。こちらもぜひご覧ください。