天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

落首(1/2)

 もちろん首が落ちるわけでなく、落書の1首の意味。諷刺、嘲弄、批判をこめた匿名の戯歌(ざれうた)。もっとも、時の権力者に誰が作ったかわかれば、首を落とされる危険はあった。古事記日本書紀にも童謡(わざうた)として出ている。有名な例を以下にあげよう。

 天智天皇崩御の時、その皇嗣のことについて、御子大友皇子と、吉野に籠った皇弟大海人皇子(のちの天武天皇)との間に不和の評判が高まり、流言がしきりに行われたが、その時の 童謡 (わざうた) が『日本書紀』に出ている。童謡は、ときに不気味なほどの内実を秘めている。

 み吉野の 吉野の鮎(あゆ) 鮎こそは 島辺(しまべ)も良(え)き 
 え苦しゑ 水葱(みなき)のもと 芹(せり)のもと 吾(あれ)は苦しゑ

[直訳]み吉野の鮎こそは、島の辺りにいるのもよかろうが、私はああ苦しい、水葱の下、芹の下にいて、ああ苦しい。

[解説]
 み吉野のは吉野の枕詞でもあり、美称でもある。その吉野の吉野川に棲む鮎こそは、川の島辺や中洲に自由に棲んでは、快適でよろしかろうが、吉野川ならぬ近江の大津の淡海を棲み処(か)としている今の私は、水葱や芹の根や茎に絡みつかれて、身動きもできない、あゝ、苦しい・・・という。
 み吉野の吉野の鮎とは、今や自由の身である大海人皇子にほかならず、一方、色々な柵(しがらみ)に絡(から)みつかれて、身動きもできずに苦しいと喘(あえ)ぎ呻(うめ)いているのは、ほかならぬ額田王十市皇女母娘のことであろう。
 島辺も良きの《良》を《え》と訓むのは古格とされているが、それは今に伝えて、関西では《良い子だね》というときに《ええ子やね》といっている。言葉に言霊(ことだま)が宿るにしても、古格に宿るのは自然なことであろう。

 [注]以上は、webの「バックナンバー 万葉散歩」nippon-shinwa.com/
       bmanyo_17.htmlから引用させて頂いた。こちらもぜひご覧ください。

 

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吉野川 (webから)