天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

極楽寺坂

定家蔓

 鎌倉七口と言われる切通しのひとつに極楽寺坂がある。この近辺は月影ヶ谷という美しい名前の谷戸であった。先に触れた冷泉為相と訴訟問題で鎌倉に下ってきた阿仏尼はここに滞在したらしい。
彼女の「十六夜日記」に、次の記載がある。


  「 東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、
   風いと荒し。山寺の傍なれば、のどかにすごくて、浪の音松風
   絶えず。 」

鎌倉側の坂下路傍に、昭和七年三月に鎌倉青年團が建立した碑があり、次のように書かれている。
  「 此所往古疂山ナリシヲ極楽寺開山忍性菩薩疏鑿シテ一條ノ路ヲ
   開キシト云フ即チ極楽寺切通ト唱フルハ是ナリ元弘三年ノ鎌倉
   討入リニ際シ大館次郎宗氏江田三郎行義ハ新田軍ノ大将トシテ
   此便路ニ向ヒ大佛陸奥守貞直ハ鎌倉軍ノ将トシテ此所ヲ堅メ
   戦フ 」

この戦闘の結果、大館次郎宗氏は討たれ、新田軍の兵たちは片瀬・腰越まで退却した。そこへ新田義貞が二万余騎を率いて駆けつけ、例の稲村ガ崎の段になるのである。


     参道に被さる木々や不如帰
     招霊(おがたま)の花地味にちる時鳥
     赤子抱く極楽寺坂ほととぎす
     這松のみどりの下の紫蘭かな
     縁側に句帳ひらけり額の花
     孔雀啼く一声かなし額の花


  うつ向きて読みゐし本を閉ぢたれば向かひの膝の
  なまなましけれ


  大将の名前記せるいしぶみを書き写したり極楽寺
  からころと池の蛙の鳴き出でし額紫陽花の鉢ならぶ寺
  巴なす五裂の花弁しらじらと咲きて匂へり定家蔓


今日は、江ノ電極楽寺駅で下り、極楽寺成就院、権五郎神社、光則寺と巡った。