天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

走り梅雨

虞美人草の花

 梅雨の先駈けを走り梅雨という。ポピーの花が盛りというので、久里浜の花の国公園に行く。電車の中で、『岡井隆全歌集』別冊・「岡井隆資料集成Ⅰ」の中の佐佐木幸綱の評論を読んだ。二十年くらい前のものであろうが、論旨明快で大変わかりやすい。短歌を作る基本的な姿勢には、アララギを主流とする「――を」歌うことに力点をおく行き方があるが、岡井は「――が」歌うことに力点をおく歌人であると説く。岡井自身の次の言葉から分る。
 “短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の
  そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。
  そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(それが即作者
  である場合もそうでない場合も)を予想することなくしては、
  この定型短詩は表現として自立できないのです。 ”


 岡井の主張は、別に新しいものではない。俳句では、石田波郷が同様の信条を掲げていた。作品を鑑賞する態度にもこれは反映されねばならないであろう。作者の位置、立場、心情を読み取る必要がある。


     走り梅雨寺軒下に蚤の市
     野茨の花はぢらへり走り梅雨
     虞美人草ふともも濡らす花の露
  
  新緑の木々にふる雨やみたれば花咲くごとし白蛾の群は
  電流の音に怒りて咆哮す送電線の下のゴジラ
  赤黒き虞美人草の花咲けば雄叫びあげし項羽おもほゆ