残暑雑詠(3)
鎌倉七口の一つ極楽寺坂切通しのそばにある極楽寺は、詳しい名を「霊鷲山感応院極楽律寺」と称する。『極楽寺縁起』によれば、もと深沢にあった念仏系の寺を、正元元年(1259年)に北条重時が、この場所に移したことが起源。当時ここは地獄谷と呼ばれ死骸が遺棄されたり、行き場を失った者たちが集まる「地獄」ともいうべき場所であったという。実質的な開祖である忍性がこの寺に入ったのは文永4年(1267年)のこととされている。極楽寺の古絵図によれば、往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていたことがわかる。境内には貧しい病人のために茶をひいたという石臼や製薬鉢、飢饉のたびに炊き出しに使ったという井戸が残っている。なおここの百日紅はみごとである。
極楽寺山門前の醉芙蓉
合唱のつくつく法師極楽寺
百合咲くや弘法大師行脚像
吹き上がる秋の潮風成就院
景正が弓立の松蝉しぐれ
大鐘は撞かれざるまま百日紅
長谷寺や辨天窟に涼をとる
谷戸に飼ふ孔雀啼かざる残暑かな
鎌倉のそこここにある力石名ある武将が手玉にとりし
弁慶が手玉にとりし力石腰越状の寺にのこれる
三郎が手玉にとりし力石注連縄張れる楠の根方に
袂石横にならべる手玉石景正公の神霊やどす
「短歌人」九月号読み月評を書かむとすれば蜩の鳴く
拾ふ神少なきこの世失業者増えて不安の日々を過ごせり
大記録達成せしを余裕とし一兵卒になるを楽しむ