天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

現代俳句の笑いー深い切れ

江戸時代の遠眼鏡(webから)

 俳句が最短詩形として認められるのは、一句に季語と切れがあることによる。切れの前後で一見、関係が無いように見えるほどの深い切れがあると、謎を感じさせ、それをうまく鑑賞できた時には、思わず快心の笑みが浮かぶ。もちろん鑑賞は読者の想像による。


     姉妹夕餉のじやが芋煮ゆるとき
     避雷針流れてやまぬ秋の海
     藪入に生れ落ちけり遠眼鏡
     笛吹いてすぐにやめけりチューリップ
     疑ひは人間にありちやんちやんこ
     散りかかる雪の玉水手毬唄
     悪筆は悪筆のまま夏座敷
     こんばんは守宮の喉に喉仏
     足(あし)足腰(あしこし)残る力やあめんぼう


 試みに三句目を解読してみよう。季語は「藪入」で新年。正月16日前後に奉公人が主人から休暇をもらって、親もとなどに帰ることを指す。次に遠眼鏡であるが、望遠鏡や双眼鏡の古い呼び方で、「とおめがね」と読む。文字通り遠いものを見る。これらを取り合せると一句は、次のように解釈できる。
奉公人であった妊婦の母親が藪入で実家に帰ってきて子供を生んだのだ。その遠い昔を思い起こしている。
もう一句、五句目を見てみよう。何に対する疑いか。人間と対比するものは、他の動物であろう。そして食べ物かなにかが無くなった事態に対して、それを誰がとったのか、と疑っている。ちゃんちゃんこを着ている人間が一番に怪しまれるのだ。それは「ちゃんちゃんこ」から受ける印象による。その内ポケットになにか隠しているような。