天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鎌倉探訪―腰越

満福寺にて

小田急江ノ島駅から常立寺、龍口寺、満福寺と訪ねた。
常立寺は現在は日蓮宗の寺だが、元は真言宗の寺で、近くの龍ノ口の刑場で処刑された刑死者を弔う為に出来たという。ここに元使塚がある。文永の役の後に、蒙古の国使・杜世忠ら5人が鎌倉幕府に降伏を要求してやってきた際、時の執権・北条時宗は彼らを滝の口刑場で斬り、死骸はこの常立寺に埋葬され、5基の五輪塔が建てられたのが由来である。現在は立派な供養碑があり「誰姿森元使塚」と刻まれた石が前に置かれているが、大正14年に立てられたものという。大相撲藤沢場所がある時には、モンゴル出身力士が参拝に訪れる。境内は梅の名所でもある。
龍口寺のある場所は、鎌倉時代には刑場であったという。文永8年(1271年)には日蓮が処刑されそうになった(日蓮宗では龍ノ口法難と呼ぶ)。のちの建武4年(1337年)に日蓮の弟子、日法がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂という堂を建立したのが龍口寺の始まり。龍ノ口法難の際に日蓮が入れられていたとされる土牢(御霊窟)がある。時の執権で北条時宗の妻が懐妊したことから、日蓮は恩赦によって斬首から流刑に軽減されたという。
満福寺は、天平16年(744年)に行基が開山したとされる。平氏を打ち破ったあとの論功行賞で源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺である。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されている。これは提出前の下書きらしい(「不顧為敵亡命」の六文字がぬけたため残った)。境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。


    紅梅や誰姿森元使塚(たがすがたもりげんしづか)
    しらす食ぶ茶房宿坊・義経


 紅梅の山門入れば左手に誰姿森元使塚あり
 菩提樹と海紅豆立つ山門をくぐりて出会ふ光松の裔
 信号を鳴らして来たり優先は路面電車の腰越通り
 腰越之状を見つめて無言なる義経弁慶主従の像は
 弁慶の腰掛石に腰おろし写真撮る人観光客は
 複製かガラスケースに納められ今に伝へる腰越之状
 江戸の世に版木つくりて複写せし売りものなるか腰越之状
 本堂の襖絵とせる逃避行 静、弁慶、義経が立つ
 満福寺義経庵の宿坊の部屋よりのぞむ腰越漁港
 数か月経ちて判るか義経と断じて捨てし腰越の海
 太宰のみ死にきれざりし心中のふかき悔恨小動崎(こゆるぎがさき)