腰越状
鎌倉市の腰越は、古くから鎌倉への入り口であり漁業の村として栄えていた。ここには、源義経の腰越状で有名な満福寺がある。天平十六年(744年)僧・行基が開山した寺という。義経の遍歴の鎌倉彫り襖絵や腰越状の下書きと称するものが展示されている。また庭には、硯池、弁慶の手玉石、腰掛石などがある。
吾妻鏡に記載されている腰越状の内容については、義経が書いた原文ではないとか、原文であったとしても、かなり虚飾が加えられているとか、『吾妻鏡』の幕府編纂者による捏造の可能性もある、とか史料的評価には議論があるらしい。ただ、江戸時代から明治時代初期には、手習いの教科書として用いられたというから、一般によく知られた文章であった。
『平家物語』巻十一「腰越の事」にも、
判官泣く泣く一通の状を書いて、広元の許へ遣さる。
その状に云はく、「源義経恐れ乍ら申し上げ候ふ意趣は、
御代官のその一つに選ばれ、勅宣の御使として、朝敵を
平げ・・・」
などと書かれているので、腰越状の存在自体は疑いようのない事実であろう。
弁慶の腕(かひな)きたへし手玉石今にのこれり野牡丹の花