天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

明治神宮

 今日は午後一時から渋谷三軒茶屋で短歌人の東京歌会がある。昼前の時間を例によって、原宿に行って明治神宮境内を散策する。三箇所にある手水舎には、月ごとに変る明治天皇の御製と昭憲皇太后の御歌が掲げられる。弥生に対応する御製は次のようである。「かしわ手」という一枚刷りのビラから抜き出したもの。それぞれに昭憲皇太后の御歌が並んでいるが、ここでは省略する。

       南手水舎  「道」
  ならびゆく人にはよしやおくるともただしきみちをふみなたがへそ
       東手水舎  「萬物感陽和」
  草も木も萌ゆるをみれば春風に動かぬものはなき世なるらむ
       西手水舎  「春駒」
  うち群れてあそぶ春野の放駒おぼろ月毛も交りけるかな


     ささやくは春の訪れ楠の杜

  おほかたは黒き衣装に身を飾り神宮橋の路傍に坐る
  清正の湧井にかがむ女ゐて飲用禁止の水を汲むなり
  白鷺のかけりゆく見ゆ春風に池さんざめくみどり濃き森


 歌会については、小池光のコメントがあった歌を次にいくつか紹介しておこう。

  芝草の枯れしたひらにクロッカスの黄のはな咲けり如月二十日
  *全部普通、あまりに無内容 と手厳しい。


  前籠に芹と菜の花摘み入れて夕映えのなか自転車を漕ぐ
  *「夕映え」が臭い! 使用してはならない言葉の典型例。
   風呂屋のペンキ絵よろしく、直に飽きられる。


  N議員T幹事長を追及しHエモンの計らざる襲
  *記号化することで非人間性をかもし出す効果はあるが、
   短歌としてはこの歌はまずい。


  指をもて足し算をする子の勘定の時折多くなりたるあはれ
  *「あはれ」というほどの内容ではなかろう。それに
   「多くなりたる」だけをあはれというのも解せない。
   少なくなることあるであろうから。


  少年がそこにそろりとチャリ寄せてコンビニ前は陽にあふれをり
  *チャリという言葉は非常に暴力的な語感を持っているので、
   「そろりと寄せる」とは決して合わない。言葉の持つ感じに
   敏感でなくてはならない。


  国産のレモン一個を買いて来ぬ買い忘られし一個のレモン
  *「買い忘られし」は日本語として変。「買い忘れられし」
   であろう。それにしてもどうして忘れられたということが
   作者にわかるのか?


わが歌は、
  何の木と問ふ 解の札開けたれば日向水木の花かがやけり

公園などにいくといくらでもこうした情景はあると思っていたのだが、上句がわからない、という人が多かった。下句は、名前がわかることで急にその草木が身近になるのでよくわかると理解してもらえた。すらしい歌だとえらく誉めてくれた人もいた。