天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

救いのない話

「俳壇」十二月号に、瀬戸内寂聴と斎藤愼爾の対談が載っている。読んでいて腹立たしくなり、いい気なもんだ、と感じた。要は体のよい自慢話であり、今の世は一番ひどい、親が子を殺し、子が親をころし、イジメが絶えない、末世 だ。その原因は、教育も寺もみな経営主体になっているからだ、という。当たり前でしょう。独裁国家ででも無い限り、高等教育や宗教にまで無償で資金を提供する者などいない。しかも、独裁国家で成功した国などない。我々は、長い歴史の経験を踏んで現在の資本主義、民主主義に生きている。人口が少ないところでは、学校も寺も今までの方法では成り立ちはしない。もっとITを活用した僻地教育を進めるとかしないとダメ。
現代の宗教家であるなら、世の中を良くする提言をすべきでしょう。仏の教えでよいところは、ぜひ学校で教えるべき、とか自分の書く小説を教科書にしたら、すばらしい教育ができる、でもよい。懇意な政治家がおられるようだから、徳育のカリキュラムでも提案して教育審議会で検討させるとか。自慢話をして世の中をけなしている僧侶ほど鼻持ちならないと思うのは、私ひとりであろうか?