荏柄天神
鎌倉の荏柄天神は二階堂にある。変わった名前だが、その由来について、参道の鳥居左側に建つ石碑には、ほぼ次のように書かれている。
和名鈔 当部に柄草と記せる 郷名あり 今其名を
失すれども当社附近の旧称なりしが如 草にカヤの
古訓あれば 江ガラは江ガヤの転訛なるを後文字を
さえ今の如く改めしものか 社前の松並木を古来馬場
と称す 本社は元中央に管公束帯の坐像 右方に
天拝山祈誓の立像 左方に本地仏十一面観音の像を
安置せしも 勧請の年代を伝えず 頼朝公初めて大蔵
の地に幕府を設けし時当社を以て鬼門の鎮守となす
爾来歴代将軍の尊奉せし所 天文年間(1532-1555)
北条氏康社前に関を置き 関銭を取りて社料に供せし
めし事あり 徳川氏の世には鶴岡八幡宮造営の節毎に
其の余材残木を受けて本社修造に抵つるを例とせしと云う
人はみなかしは手うてり大塔宮に据ゑたる赤獅子頭
紅梅は咲きにほへども白梅は固きつぼみの荏柄天神
代り映えなしと思へどまたも書く「家内安全」紅梅の下
鈴なりに絵馬かかりたり紅梅の色より朱き荏柄天神
子供連れ女ばかりの天神社ひたすら祈る受験合格
先端はリンガのかたち頼朝の墓と伝へる五層の石塔
もののふの血に染まりしと碑に読める法華堂跡に
子等が絵を描く
若宮の庭に傾く柏槙のいつまでもつか根を気遣へり