観音崎灯台(3)
観音崎周辺の台場について、路傍の説明板から紹介しよう。
江戸時代後期、外国船の来航が激しくなると
江戸幕府は海防のため浦賀奉行所をはじめ
各大名に三浦半島の警備を分担させました。
観音崎台場は、文化九年(1812)会津藩
によって築造されました。明治以後は、海軍省
や陸軍省が東京湾要塞地帯の最前線として近代的な
砲台を築造し、太平洋戦争終了(1945)まで管理され
ました。観音崎一帯は明治十四年要塞法により一般人の立
入りが禁止されました。観音崎公園には、三軒家、大浦、
南門、第一〜第四砲台や火薬庫など、今でも石組みやレンガ
造り砲台の跡が残っています。
海辺の道には、西脇順三郎の「燈台へ行く道」と題する詩碑がある。たゆたうような次の詩である。
まだ夏が終らない
燈台へ行く道
岩の上に椎の木の黒すんだ枝や
いろいろの人間や
小鳥の国を考えたり
「海の老人」が人の肩車にのって
木の実の酒を飲んでいる話や
キリストの伝記を書いたルナンという学者が
少年の時みた「麻たたき」の話など
いろいろな人間がいったことを
考えながら歩いた