天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

紅葉狩(9)

源氏山から化粧坂を見下ろす

 鎌倉源氏山のもみじ如何にと寿福寺横から山に入り、源氏山公園、化粧坂、葛原岡、浄智寺と歩いた。源氏山から見下した化粧坂の紅葉が凄みを帯びて最も見ごたえがあった。浄智寺の山門周辺も常になく華麗に紅葉していた。


     寿福寺の裏山に入る紅葉狩
     年暮れて笹鳴せはし源氏山
     朝光の紅葉なだるる化粧坂
     頼朝が見渡す山の黄葉かな
     浄智寺の山門に会ふ紅葉かな


  新田軍が攻めあぐねしとふ化粧坂血しぶくさまに紅葉
  かがやく


  頼朝のまなざしはるか鎌倉の朝(あした)の海は油
  照りせり


  鎌倉の朝の海は日に照りて伊豆大島は消えてしまへり
  苔むせる俊基卿の首塚に供へられたる菊新しき


  竺仙梵僊(じくせんぼんせん)和尚の語録「天柱集」五山
  文学の白眉といへり


  康成が秀雄が注文せしといふ「つるや」の鰻わが席に待つ
  三男に継承されし核ボタン北朝鮮の飢餓つづくまま


  犬猫に限らずインコ、オウムまで飼へなくなりし被災地
  なりき


  リアリティ無きシナリオを峻拒せり俳優(わざをぎ)ひとり
  行方知れずも


[注1]化粧坂は、武蔵方面から葛原が岡を通って鎌倉へ入る
   切通し。元弘3年5月18日、新田義貞が鎌倉を攻めた時、
   激戦地となったつづら折の坂道である。鎌倉軍の抵抗は
   激しく、新田軍は、4日経っても突破できなかった。
   それであきらめて稲村ケ崎を迂回して鎌倉に攻め込んだ
   という経緯がある。
[注2]浄智寺の裏山を「天柱峰」という。中国の明代にわが
   国に来た竺仙梵僊和尚が、浄智寺の住職を務めた時に、
   好んだ場所であった。