天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

吉田松陰と鎌倉瑞泉寺

鎌倉・瑞泉寺にて

 松陰の母方の伯父・竹院和尚が第二十五世住職を務めていた瑞泉寺。松陰はこの伯父を訪ねて幾度かこの寺を訪れたらしい。1854年安政元年)、下田で密航を企てる直前にも、和尚に会いにきたという。ところでなんでまた長州の人が鎌倉に職を得ていたのか、不思議に思っていたが、毛利氏の出自が相模の国であったこと、鎌倉幕府大江広元を祖先に持つことなど古い歴史があったのだ。それにしても鉄道の無い江戸末期に日本各地を短期間に歩いた当時の人や松陰の健脚には頭が下がる。
 瑞泉寺山門の前の石碑「松蔭吉田先生留跡碑」は、1929年(昭和4年)に建立されたもので、徳富蘇峰の筆によるもの。自然石を切り出した石碑の裏に寅次郎(松陰)が詠んだ漢詩が彫られている。これは野山獄に投獄されていた時、夢の中に現れた瑞泉寺を懐かしんだものというが、石の白さに同化して、今では判読できない。
 山門には、今月の俳句として次の富安風生の句が黒板に白書されてあった。
     母の忌や其日の如く春時雨    風生

 瑞泉寺から歩いて、鎌倉宮(大塔宮)、荏原天神、法華堂跡、頼朝の墓、鶴ケ丘八幡宮などを巡って帰途についた。


     竹林が少しざはめく春の風
     万作の大樹は空をにぎはせる
     松陰の気質うらやむ梅の花
     天神の朱に交はるや梅の花
     大いてふ倒れし跡の芽吹きかな


  松陰も手を合はせけむ本堂の釈迦牟尼仏に吾も手合はす
  国禁を犯す覚悟にながめけむ護良親王幽閉の牢
  土牢の住み心地やいかにと松陰が立ち寄りにけむ大塔宮
  今ははや訪ふ人もなし鎌倉の大蔵幕府裏山の墓地
  松陰もふり仰ぎけむ大銀杏倒れし後の幹切り立てる