天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鳰と狼(2/11)

左:澄雄、右:兜太

類似点 
 森澄雄金子兜太(以下、本文ではそれぞれ澄雄、兜太と記す)の類似点を経歴面から見てゆく。


一 生年: 二人とも大正八(一九一九)年に生れた。澄雄は二月二八日、兜太が九月二三日である。なお、澄雄は平成二二(二0一0)年八月に、九一歳で亡くなった。兜太は現在(二0一四年七月)健在であり、九四歳。ふたりとも長寿といえる。
二 学歴: 澄雄は長崎高等商業、九州帝国大学法文学部経済学科を卒業。兜太は旧制水戸高等学校、東京帝国大学経済学部を卒業。経済学を学んだ点で共通している。
三 出征: 二人とも大学卒業後、澄雄は映画配給社に、兜太は日本銀行に一旦入社入行するが直に退職、一九四四年に澄雄は陸軍に、兜太は海軍に入隊し将校(中尉)になった。出征地については、澄雄はマニラ経由で北ボルネオに入り、ジャングルの中を二百日も彷徨する(「死の行軍」)という筆舌に尽くしがたい経験をした。捕虜になって帰国した故郷の長崎は、原爆で灰燼に帰していた。一方、兜太はトラック島に赴任、不足する物資のもとで苦しい戦争に耐えたが敗れて米軍の捕虜になり、米航空基地建設に従事した後復員船で帰国した。澄雄のいた軍隊では、約二百人の中隊のうち、生存者はわずか八名という悲惨な戦であった。兜太の場合は、四万人の日本人がいたが、その三分の一が戦死した。
四 俳句: ふたりとも戦前の高等学校の時から「寒雷」に投句し、加藤楸邨の選を受けた。また楸邨と並び人間探求派と呼ばれた石田波郷を評論の対象としたことも共通している。後年、澄雄は「杉」を、兜太は「海程」をそれぞれ創始して主宰した。ふたり共、蛇笏賞紫綬褒章、勲四等旭日小綬章日本芸術院賞 などを受賞している。
五 家族: ふたりの父親は、どちらも医者であった。澄雄の父は、歯科医。兜太の父は田舎の開業医。さらにどちらも雑誌に投稿したり句会を開いたりと俳句に凝っていた。澄雄も兜太も復員後に結婚して長男を得た。名前の付け方に、二人のそれぞれの俳句への思いが反映されているようだ。澄雄の長男・潮(うしお)は、淡海への傾倒からきているであろう。兜太の長男・直土(まつち)は、産土への執着を表しているようだ。澄雄も兜太も家族、なかんずく妻を愛したことは、俳句作品の数の点から分る。
六 漢詩文: 俳諧の分野においては、芭蕉を例にひくまでもなく、漢詩文の素養が存分に活かされている。澄雄や兜太にとっても漢詩文は身近なものであった。澄雄は句集名にも採用している。『白小』、『花間』、『游方』、『花眼』、『鯉素』 など。中国に旅した時には、「李杜思ふ洛陽にあり花月夜」と詠んでいる。
兜太に至っては、中国最古の詩集『詩経國風』から素材を得て連作を作った。各章の巻末に日本列島での日常の句を反歌のように置く構成で句集名も『詩経國風』とした。「國風」は、古代中国の庶民の間で流行っていた民謡を集めたもの。小林一茶が先に『詩経國風』に材をとった句を詠んでいるので、兜太はそれを範にしたのであろう。