天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鳰と狼(3/11)

加藤楸邨

                

それぞれの道
大戦終結後すぐに発表されたフランス文学研究者・桑原武夫の「第二芸術論」(『世界』昭和二一年一一月号、「第二芸術―現代俳句について」)は、戦線から帰国して俳句を本格的に始めようとする澄雄や兜太には、少なからぬ影響を与えたはずである。ふたりが師事した加藤楸邨は、桑原の批判を肯定的に受け止めて、
「俳壇的人間存在というものは、子規によって規定せられた写生にふさわしい人間であり、虚子一門によって規定せられた花鳥諷詠流に歪められた人間であり、或いは観念的にイデオロギーによって規定せられた形式的人間に過ぎなかった。明治以来の俳句には生きた人間の息づく場は俳句の中にはなかった。」
という反省のもと、芭蕉に学ぶ方向を明示して、
「「人間の生き方に一切を求める道」これを現代に生かすこと、ここにこそ俳句近代化の活路を求めたい。」
とした。
澄雄には、こうした楸邨の考え方や同じ人間探求派の石田波郷の「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭蕭又朗々たる打座即刻のうた也」「俳句は文学にあらず」といった言明が、伝統俳句に取り組む姿勢に力を与えた。澄雄の言葉を次に引用する。
「その心は芭蕉さんと同じなんですね。創作ということは俳句にはないんです。ものをつくる、作意を凝らすという概念は俳句にはない。俳句というものは、自分の生活そのままを詠う。そして、自然や宇宙の方が遥かに大きいんです。その自然に従って詠う。それが俳句を作る心なんです。また、俳句を美しく飾ったり、文学的な飾りを付けてはいけないんです。もとの自分自身に還って、人間のありのままの言葉で詠えば、それが俳句です。」
句法は、芭蕉を尊敬して正調有季旧仮名遣いを順守した。
一方の兜太は、楸邨や波郷に共鳴しつつも新しい方法論により俳句を社会運動の力にしてやろう、という意欲を持った。そして造型論を提唱する。それは実景を主体的に捉え、そこに新たな存在としての実在感を創り出すという試み。作品を創造する過程において、対象と自己との中間に「創る自分」を設け、その意識活動を通じて、主としてイメージによって作者の内面意識を造型しようとする。要すれば「自己と物との間に創造する主体をおき、人間存在を表現」する新しい詩的方法論であった。俳句の律を破調(特に字余りや音節と文節の不一致)にして安易な抒情性を排し、表記では現代仮名遣いを採用した。兜太の句法は前衛俳句と呼ばれた。