旅を詠む(3/6)
現身(うつせみ)のはてなき旅の心にてセエヌに雨の降るを見たりし
道に死ぬる馬は、仏になりにけり。行きとどまらむ旅ならなくに
釈 迢空
*新しく出来た馬頭観音像を見ての感想。次の歌も有名。
人も馬も道ゆきつかれ死ににけり。旅寝かさなるほどのかそけさ
旅なれば一夜(いちや)の夢もはかなきを木(こ)がくれにして月没(い)りやすき
前川佐美雄
出稼ぎといひつつ旅に発(た)ちてゆくこの諧謔(かいぎやく)もさびしきものを
木俣 修
*確かに出稼ぎの旅は寂しい。
海中に入りゆく石の階ありて夏の旅つひの行方しらずも
仕残しの仕事を置きて旅に来つ落ち鮎の身を身に沁みて食う
*旅に来たことと落ち鮎の身とが絶妙に呼応している。
旅を詠む(1/6)
旅に抱く感情は、時代によって変遷している。古典和歌の時代は、旅を苦しいものと感じる傾向が一般的であり、人生と重ねてみることも多い。時代が進んで、物見遊山の余裕が出てくると悲壮感は薄まってくる。旅の語源には、「たどる日」「他日(たび)」「外日(とび)」「外辺(たび)」「飛(とび)」「発日(たつび)」「他火(たび)」「給(たべ)」のほか数多くの説がある。(語源由来辞典から)
引(ひく)馬野(まの)ににほふ榛原(はりはら)入り乱り衣にほはせ旅のしるしに
万葉集・長 奥麿
*「引馬野に美しく色づいている榛原に分け入って衣を染めなさい、旅のしるしに。」
榛原: 落葉高木ハンノキの生えている原。
宇治(うぢ)間山(まやま)朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに
家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
万葉集・有馬皇子
家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥(こや)せるこの旅人(たびと)あはれ
万葉集・聖徳皇子
けさきなきいまだ旅なるほととぎす花たちばなに宿はからなむ
古今集・読人しらず
*「 今朝、やって来て鳴いたほととぎすよ。まだ旅を続けているのなら、橘の花に宿を頼んでください。」
唐衣きつつなれにし妻しあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
このたびはぬさもとりあへずたむけ山紅葉の錦神のまにまに
*「今回の旅は幣の用意もできませんでした。手向山の色とりどりの紅葉の葉を幣として差しあげますので、神のお心にしたがってお受け取りください。」
温故知新(9/9)
次に、いくつかの局面で小池の特徴がよく現れている歌をみていこう。先ずは、ユーモアに批評が加わるウィットの例。
「子供より親が大事、と思ひたい」さう、子機よりも親機が大事
『時のめぐりに』
更に旺盛な批評精神の現れている歌として、
一片の岩片をひそと土に埋め旧石器日本を立ち上げにけり
『滴滴集』
自己客観視も批評精神の現れである。
笹の間のちひさな石に腰かけて いつしか来(きた)るわれそこにゐる
『静物』
固有名詞については、小池光が専門にした物理・数学を含む科学分野の歌に、特徴が現れる。次の歌は数式が無理なく納まって秀逸。
簡潔にS=klogW と刻むのみルードヴィッヒ・ボルツマンの墓
『静物』
さらに哲学、特に論理学にも関心を寄せた。
娯楽としてよむヘーゲルのあればとて尻のポッケの『小論理学』
『滴滴集』
歌集『草の庭』に、ウィットゲンシュタインと題する一連二十一首があり、言語機能と事実の関係について詠んでいる。以下のような例は、読者が納得して感心することに賭けている。知の詩情の究極の実験であった。
要素命題の真理可能性はとりもなほさず事態の真理可能性なるべしやいな
事実真実を論理的に詠うことで、不思議さやユーモアが出せる方法も小池は心得ていた。
存在と時間をめぐり思ふとき泥田の底の蓮根のあな
『日々の思い出』
芝桜をカラス飛び立てり ややありて二本の黒い足も飛び立つ
『滴滴集』
人名や地名の詠み込みも興味あるテーマだが、紙幅の都合で割愛した。また例歌を限定したが、ここで取り上げた三人の全歌集を見れば、紹介した手法の例に数多く出会える。
温故知新(8/9)
第二には、主語の扱い方である。動作の主語を隠すことによる謎かけ。作者以外の主語を明確にせず、その動作だけを述べることで読者を立ち止まらせる。
あち等こち等に突きあたりつつ入りきては納簾のひもの鈴をゆすれり
上句の主語を隠して下句で別の主語を出す方法も不思議感を醸す。
いにしへに瓦を焼きし跡にきて谷よりのぼるひぐらしのこゑ
あるいは、上句でひとごとのように情景を述べ、主語を結句で明らかにすることで、頷かせ笑わせる。
食卓にひきがへるのごとむつつりと膨(ふく)れてをればわれは父おや
三番目にあげたいのは、二重に言い直すことで考えさせる方法。
情緒的言(げん)に言ふときにおのづからやぶれてゐたり野中広務は
四番目には、慣用的な言い方を逆転する方法である。同じ内容なら、通常の言い方をやめて逆転した言い方に変えることで、読者の注意を引きつける。慣用的には、二日二晩というところを、
庭の棕櫚切り倒したる夕べより二晩二日(ふたばんふつか)雨ふりやまず
以上の例はいずれも歌集『時のめぐりに』から採った。
「とり合せ」は、歌の内容が膨らみ、奥行きが深くなり、読者の想像力を要求する方法で、小池もよく使っている。難解になる場合が多い。一例だけあげる。
アルブレヒト・デューラーの目に十六世紀の犀しづかなり桃の花ちる
『滴滴集』
この歌を解釈してみよう。ルネサンス期ドイツの代表的な画家デューラーに、犀が静かに佇んでいる絵がある。そのどこにも桃の木は無いし、花は散っていない。でもよく見ると犀の鎧の皮膚に花模様が描かれているではないか。小池がこの絵を見たのがちょうど桃の花が散る季節でもあったのだろう、絵の花模様を桃の花と見立てた。
温故知新(7/9)
なお、思っていないと詠うことで、実は思っていることを暴露する歌は、斎藤茂吉が得意とする方法であった。次の例は有名。
はるばると一(ひと)すぢのみち見はるかす我は女犯(によぼん)を
おもはざりけり 『あらたま』
では、小池光の短歌における知の詩情の依って来る技法について詳しくみていこう。
初めに述べたように、知の詩情の契機となるものは、読者が短歌を読む際に感じる謎であり、立ち止まって考えさせる措辞である。
その第一に取り上げたい方法が、副詞・副詞句の意外で巧みな使い方である。小池光短歌の秘密・特徴の全てがここにある、といっても過言でない。ユーモアと批評つまりウィットの根源である。以下の引用歌で傍線を施しておいた。それぞれ、決して無理な使い方でなく、妙に説得力があっておかしい。一々の解説は不要であろう。
午後二時となりしばかりに鹿の湯のえんとつよりはや烟はのぼる
『日々の思い出』
粟つぶほどの熱心もなくなりてのち教ふる技(わざ)はいささかすすむ
『滴滴集』
温故知新(6/9)
小池が塚本から引き継いだ考え方に、「不在の在」がある。写真家・中野正貴は「人のいない風景」というテーマで、銀座や渋谷の繁華街の無人の時を撮影して、見る者に逆に人間の存在を強く感じさせている。
短歌では、事象が「ない」と詠うあるいは「思わない」と詠うことによって、逆に読者にその事象の存在を感じさせる、作者の本心を窺わせるという手法である。古くは藤原定家が用いた。
駒とめて袖打払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮
『新古今和歌集』
「駒とめて袖打払ふ」と詠まれた時点で、読者はそれらの情景をイメージしてしまう。つぎにそれらが無い情景を想像する。「ない」と言いながら、その実、読者には存在を感じさせてしまうのである。
塚本の「不在」へのアプローチは、独特であって、有名人物についてその人の忌日を詠みこんだ。難解になる歌が多いが、
群青の沖へたましひ奔りをりさすが淡雪ふる実朝忌
『豹変』
という例は、渡航願望を果たせず雪の日に暗殺された歌人将軍を容易に想像させる。
小池の場合は、次の歌に見るように喪失感が指摘される。在りし日の鉄道駅を想う。
廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり
『廃駅』