天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

佐助稲荷

天柱峯

 先日インターネットで注文しておいた本『父・白秋と私』が昨日届いていたので、それをバッグに入れて鎌倉に出かけた。佐助稲荷から裏山に登り源氏山公園に出て、さらに浄智寺への山道をたどり円覚寺に至る。昨日ふれた地名の関係上、鎌倉の町名の由緒が気になる。


 相州鎌倉隠里佐助稲荷神社由緒には、次のように書かれてある。
   当社は源頼朝公の再建せし古社にして御祭神は宇加御魂命・
   大己貴命・大宮女命・事代主命。往古頼朝公伊豆蛭ヶ小島
   配所にて、平家討伐を日夜念じをりし折、稲荷の大神気高き
   老翁の姿にて夢に現れ給い、挙兵をうながし、その時期を
   啓示し給えり。頼朝公天下一統の礎を固めし後、稲荷神霊の
   加護に感謝し畠山重忠に命じ、佐介山隠れ里の霊地を選び社殿
   を造建せしむ。人々の信仰きわめてあつく、出世稲荷として
   その御神徳は広く関東一円に拡がりたり。
   さらに寛元の頃(十三世紀中)鎌倉に疫病流行せし時、佐介
   稲荷の大神再びき奇瑞を現し給い、霊種をして薬草を生ぜしめ
   病苦の者、ことごとく癒し給いぬ。以来、神威更にかがやき、
   商売繁盛、病気平癒、大漁満船、学業成就の霊験顕然たり。


  花ちりし後に若葉の萌えいづる佐助二丁目藤色づけり
  稲荷山田畑うるほす水源の証なりけり霊狐の泉


 浄智寺裏山の頂には、「天柱峯」と書かれた葉状の石柱が立っている。その後ろに石の多重塔がありその横に次のような碑文が読める。

     竺僊梵僊和尚は元の来朝僧なり建武元年浄智の詔を受け
     天柱峯下に楞伽院を剏む興国二年旨を奉じて南禅に住す
     正平三年疾を以て事を謝し再び楞伽院に回りて寂す全身
     を最勝塔に葬る語録天柱集は五山文学の白眉と称せらる


  元僧を葬りし塔の傾きて台湾栗鼠の山かしましき


 円覚寺では仏殿の庭のベンチに坐って、バッグに入れてきた本をしばしの間読む。白秋の長男・北原隆太郎が、父の思い出をあちこちで書いたりしゃべったりしたことをまとめた本である。隆太郎は、哲学を学び禅の修業に相当の時間を費やしたせいか、全く生活臭が感じられない。そして生業がはっきりしない。父・白秋の思い出を語ることだけの人生のように見える。有名な父親を持つと、世の中にはこうした事態はままあるのであろう。それはともかく、今までに読んだ評伝に加えて、これで北原白秋のすべてを知ることができる。

 

  仏殿の庭に老いたる柏槙の梢に群るる椋鳥の群
  ビヤクシンの木蔭に開く『父・白秋と私』まぶし椋鳥の声 
     円覚寺谷戸になだるる著莪の花
     唐門の破風にかかるや八重桜
     円覚寺若葉の下の読書かな