天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鎌倉宮

護良親王墓

 というわけで、今日はあらためて鎌倉の宝戒寺、北條高時の腹切りやぐら、鎌倉宮護良親王墓などを訪ねた。鎌倉幕府の政治に不満を抱いていた皇族公家が、足利尊氏新田義貞などの武力を利用して、政権を奪取したのが建武中興であった。だが、やはり天皇公家では、鎌倉幕府なみの国家運営の実務は無理であった。足利尊氏が謀反を起こしたのは当然のなりゆきであった。仮に、楠木正成が勝者になって後醍醐天皇に仕えたとしても皇族、貴族、武士などの知行を満足させることは不可能であり、叛乱を起こすことになったと思われる。ちなみに太平洋戦争までは、建武中興や楠木正成親子の別れのシーンが教育で称揚されていたが、帝国主義の都合であったといえよう。太平記を読むだけでもその後の歴史を考えるヒントが得られる。
 北條政権は、高時の執権時代に、後醍醐天皇配下であった新田義貞に攻められて滅びた。北條高時と一族郎党が自刃した場所が東勝寺である。滑川を挟んで向かいに宝戒寺があるが、これは、建武二年(一三三五)後醍醐天皇が北條一族の怨霊を慰めるため足利尊氏に命じて建てさせた鎮魂の寺である。開基は後醍醐帝、開山は恵鎮。七堂伽藍、二院、三十六坊を有した大寺であった。東勝寺は北條家の菩提寺であり、宝戒寺の場所にはそれまで執権の居館があった。
 腹切りやぐらに入ったら高倉健の納めた卒塔婆がいくつもあった。「南無地蔵大菩薩 為春彼岸 苅田式部大輔篤時公佛果菩提攸 高倉 健」といったものである。俳優の高倉 健だと思うが、ふたりの間にどのような関係があるのか調べてみたい。
 鎌倉宮では、たまたま観光客を案内して宮司さんが境内を案内していたので後について歩いた。今日は、「鎌倉宮碑」をつくづく見た。これは、明治天皇明治維新建武中興と重ね、護良親王を自分と重ねて、親王が幽閉され首を刎ねられたこの地を訪れて、鎌倉宮命名した際に、三条実美に顕彰を命じた経緯が碑に書かれている。全文をあげるのは止めるが、次のような文面である。

    明治六年四月十六日 車駕鎌倉ニ幸シ 親シク故征夷大将軍
    二品護良親王ヲ祭ラセ給フ 越エテ十七日 ・・・・・・
          銘に曰ク
      土窟幽暗 久シク蒿蓬ニ没ス
      昌運維レ新ニ 煥タル其宮アリ
      明主ノ徳 親王ノ忠
      千秋赫奕 孰レカ欽崇セザラム

 足利直義の命を受けた淵辺義博が護良親王の首を刎ねたが、親王の死相の激しさに恐れをなして首を打ち捨てたところが御構廟(御首塚)として、鎌倉宮碑の横にある。捨てられた親王の首を拾ったのが理智光寺の僧であった。僧は五峰山の山頂に葬った。理智光寺址であるが、今は宮内庁所管の護良親王墓所となっている。ちなみに鎌倉宮の舞殿の横に村上社があり、その前に樹齢百三年の欅大木に彫り上げた村上彦四郎義光の「撫で身代り」像がある。村上彦四郎義光は、護良親王が吉野宮を脱出の際に、親王の鎧直垂を着用し、「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切る時の手本とせよ」と告げて腹を一文字に掻き切り壮絶な最後をとげた忠臣である。


     石楠花や鎌倉宮碑に横の罅
     青葉闇やぐらに菩提弔へる
  梵字一字石に刻みて菊供ふ薬師如来の立札はあり
  もののふの滅びし寺の址に飛ぶたんぽぽの絮烏の羽音
  東勝寺跡地を訪へば天曇る北條高時腹切りやぐら
  樹齢百三年の欅大木に彫りし撫で身代り像を据ゑたり
  卒塔婆高倉健の名前あり苅田篤時公に手向くる
  九ヶ月幽閉されて足萎へぬ二段岩窟谷戸の土牢
  大楠の若葉の風にさはだてる鎌倉宮谷戸の土牢
  並み立てる楠の大樹の風を聞く宮片隅の御構(おかまへ)廟(どころ)
  御首(みしるし)を拾ひて祀る五峰山木の下闇にうぐひす啼くも
  山頂の墓訪ひくれば青葉闇足音ひびく石の階段
  政道は精神ならず実務なり治安賃金年金保