天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

母と子

阿佛尼邸跡

 阿佛尼(〜1283)とその実子冷泉爲相(1263〜1328)のことである。阿佛尼は鎌倉時代歌人であるが、安嘉門院に仕えて四条と称した。後、藤原定家の息子の爲家の側室となり、冷泉家の祖となる爲相を産む。爲相に属すべき和歌所の所領播摩細川庄を、異母兄の爲氏が横領したため、母阿佛尼は執権時宗に訴え裁定を仰ぐべく、建治三年に京を発って鎌倉に下った。その住まいが月影ヶ谷であり、住居跡に写真の碑が建っている。極楽寺三丁目十二番地、江ノ電の踏み切り脇である。その時期につけた日記を「十六夜日記」という。
では、その子爲相はどうしていたのであろうか。母阿佛尼を慕って後から鎌倉に下向したらしい。そして鎌倉では、藤谷に住んだ。兄から分家して冷泉家を起こした。正二位中納言にまでなり、藤谷黄門と称された。鎌倉を中心に活動し、関東で影響力をもつようになり、子の爲秀の代からは京都の歌壇にも勢力をもつようになった。歌集には「藤谷和歌集」「為相郷千首」などがある。北鎌倉浄光明寺の裏山に爲相の墓という立派な宝篋印塔がある。一方、阿佛尼の墓と称する印塔が、壽福寺、英勝寺から浄光明寺に向うJR沿線の路傍の洞の中にある。
 少しややこしくなるが、藤原定家の息子の爲家は正室を関東の豪族宇都宮頼綱の娘を迎えたのである。一方、爲家の側室・阿佛尼は京の宮廷出身。定家は鎌倉三代将軍実朝の歌の師であったように、鎌倉幕府とは親しかった。阿佛尼の訴状を受け取った北條執権は、困ったのではないか。正室の子と側室の子との領地争いである。阿佛尼の望む裁決は、ちょっと信じられないが、彼女の死後三十年経ってから下ったという。


     裁決をまちて今年もつくつく師


  評定の結果を聞かず逝きしといふ彼岸花咲く月影ヶ谷(やつ)