天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

東京歌会の詠草から

 17日、日曜日の午後に、短歌人東京歌会が開催された。十二月は毎年題詠が恒例になっており、今年の題は「道」であった。詠草を送ったものの残念ながら、体調すぐれず欠席してしまった。「道のうた」の評論を書いた関係からもぜひ出席したかったのだが、薬で発熱を抑えている状況では、とても無理であった。歌会の後で、川井さんがご親切に詠草リストをPDFにして送って下さった。67首の詠草があり欠席者は3名。つまり64名が出席。詠草の中から好みの10首を取上げ、多少の感想を述べる。


  歩きつつ豚饅を食ふ少女らもい容れて馬車道の夜はかしまし
  *豚、少女、馬 と言葉が並ぶとエネルギッシュな雰囲気が出る。


  道ならぬ恋に苦しむ友なりきみち倫あらぬいま現在何に身を焼く
  *昔は世の中に倫理感があった。現在はもはやない。よって身を
   焼く思いもない。


  道といふ道をアスファルトでふたをしてこれでもかこれでもか
  といふやうにせり
  *アスファルトで道にふたをする という捉え方と結句の言い方
   が面白い。


  靴や滑る二日つづきし雨の夜に踏みゆくさくら落葉の道を
  *初句が古今和歌集に見るような措辞である。


  欅の道公孫樹の道を抜けてゆく足裏にサ行音をまとひて
  *下句のいかにものところが気になる。中学生や高校生の歌なら
   二重丸だが。


  いっぽんの道が真っすぐつづくとは限らぬとわれに赤毛のアン
  *上句は赤毛のアンの小説か映画の一場面にでも出てくる言葉
   であろうか?


  地下道よりあがりてゆけばビル街をいわし雲ゆく一方向へ
  *何でもない日常の情景を詠むとかえって新鮮な認識を得る
   ことがある。


  ちひさめの咳ばらひして「女の道」ベルカント唱法に
  うたひあげたり
  *演歌とベルカント唱法の対比が意表をつき愉快。


  道に降りし金木犀の花くずの一日過ぎればことごとく老ゆ
  *これも日常の情景だが、散った花くずが老いる、という
   措辞にビクっとする。


  どこまでもこころは逸れてゆくものを足は辿れり駅までの道
  *勤め人にしても毎日の行動は決まりきったもの。だが心には
   奔放な空想が湧く。


 ところでわが詠草は、次のもの。欠席したので、出席者の批評は無し。


  二次元の図形になさばひびくらむ言の葉さぐるしきしまの道
  *前衛歌人塚本邦雄岡井隆が盛んに試みた方法論。
   和歌の道がここまで追求されているという感慨を詠ったつもり。