天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

会津八一の晩年

八一旧居と庭の歌碑

 8月4日は、会津八一記念館、北方文化博物館、西堀通りの寺々(勝楽寺・良寛手毬の図石碑、瑞光寺の八一墓など)、白山神社とめぐる。
会津八一の晩年は幸福であった。終生を独身で通したが、うら若き女性が入れ替わり立ち代り、身の回りの世話をしてくれた。初恋の人を今でいうストーカーまがいに恋い続けたが、思いかなわず独身の生涯になってしまったのだ。晩年の住まいが、今、北方文化博物館となっている。その庭園には、八一の絶筆となった歌碑がおかれている。八一の要請により筆運びを厳密に守って彫られたという。次の歌である。和歌を書くときの様式にならって、濁点はふってない。
     かすみたつ はまのまさこを ふみさくみ
     かゆき かくゆき おもひそわかする


八一の墓は曹洞宗金青山・瑞光寺にある。墓の前の欅の根方に望郷の歌碑がある。

  ふるさとのふる江のや奈ぎは可くれにゆふべのふねのもの
  かしぐころ
  (ふるさとの 古江の柳 葉隠れに 夕べの舟の もの炊ぐころ)


余計だが、隣に高浜虚子の句碑がある。
       三羽居し春の鴉の一羽居ず


 八一の歌は、五七五七七といふ短歌正調の韻律を踏んでいるので、かな文字のベタ書きでも朗々と読み下せる。読みにくい、判りにくいということで敬遠されることが多いが、そのため八一自身が『自註鹿鳴集』を出した。そこには、専門の東洋美術史に関する彼の研究成果も含まれていて、名著である。
 夕方、佐渡汽船ターミナルの会議室で、短歌人夏季集会のオープニングパーティが開催され、藤原龍一郎司会、小池光(短歌人編集人)と山田富士郎(未来選者)の対談「会津八一と斎藤茂吉」があった。八一と茂吉の生きた年代、生年と没年はほぼ重なっている。が、歌に表現した内容は、対極にあるといってよい。八一は早くから万葉集に親しみ、良寛の歌に心酔し、結社とは無縁で独自に歌を習得した。誰も関心を持たなかった八一の歌をいち早く評価したのが、茂吉であった。このふたりの例歌をならべておこう。

  いかるがのさとのをとめはよもすがらきぬはたおれり
  あきちかみかも             会津八一            
  きこえくるラヂオドラマの女の声くるしむ獣のこゑより
  はかな                 斎藤茂吉

                      

 以下に今日の嘱目詠を。


       あづまやに雨やどりする蓮の花


  万葉のしらべにのりて破綻なき八一のうたに心やすらぐ
  ひとり見る会津八一のビデオには八一の役の仲代達也
  立ち机狸の毛皮敷く椅子の展示されありありし日の影
  血圧の高きをなげきのこる世を歌の自注にすごさむと云ふ
  究めたる奈良のみ寺のことどもに文学博士得る五十四歳
  晩年の八一のすまひ見てあれば良寛和尚の書も掛かりたり
  晩年の八一のすまひ見てあれば庭にすゑたる絶筆の歌碑
  手毬つく良寛和尚の碑をながめしばしいこへり寺のきだはし
  寺あまた西堀通りにつらなれば汗拭きめぐる歌碑をさがして
  どの寺も鐘楼もてば年の瀬は鐘つく音のにぎやかならむ
  しゃんしゃんと幹に梢に蝉鳴ける欅根方の望郷の歌
  立ちならぶ柳の木々は夏なればおどろおどろし汗噴きやまぬ