天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

大山詣で

相州大山良弁滝(北斎画)

 大山山頂の阿夫利神社に人々が講を作って集団で参詣することを大山詣であるいは大山参りという。江戸中期に最高潮に達した。修験道の大山寺が中心であった。徳川家康の「寺院法度」の発布により修験者が山をおり、麓に大山講の御師となって沢山の宿坊を作った。
御師は先導師ともいわれ、現在も追分付近には先導師が始めた旅館が多い。下社からの参道が表参道、蓑毛からヤビツ峠経由で尾根を登る参道が裏参道である。
 相州大山は阿夫利山、雨降山(あふりさん)ともいい農民から雨乞いの神として信仰された。相模灘をゆく船乗りたちからは海上安全の神としても信仰された。納め太刀の風習は、源頼朝が太刀を納め、天下泰平・武運長久を祈願したのが始まりとされ、庶民の間に招福除災の祈願に木太刀を納める風習として広まった。
「大山寺縁起 」によると、大山の歴史は古く天平勝宝7年(755)に華厳宗の祖である東大寺別当の良弁によって開山されのちに真言密教修験道場となった。大山信仰が隆盛の頃は、関東の道はすべて大山に通ずると言われたほどで、大山を中心に放射状に広がり、それらは「大山道」と呼ばれた。


      さまざまの身なりにならぶ案山子かな
      秋風の声を聞きたり雲井橋
      花芒観音菩薩を仰ぎ見る
      三頭の乳牛を飼ふ曼珠沙華      
      
  標高は千三百に満たざれど雲に隠るる大山の峰
  樅の木の原生林を下に見て雲湧き下る大山の峰     
  雨雲に隠れて見えぬ大山の鹿を思へり雨にうたるる
  雨降山大山寺明王の目裏赤く彼岸花咲く
  谷川を流るる水のせせらぎにきれぎれ聞こゆ地虫鳴く声    
  大いなる木太刀かつぎて禊する相州大山良弁の滝
  宿坊のあまた並べる参道に大山詣での人つらなれり
  秋ふかむ大山寺にわがくれば地虫の声もとぎれがちなる
  あしびきの山を下り来て身を伸ばす風呂の湯に沁む靴擦れの痕