新島譲終焉の地
新島譲はキリスト教の布教者であり、同志社大学の創設者として知られる。福沢諭吉と並ぶ明治の偉大な教育者であった。天保14年(1843年)、江戸神田にあった上州安中江戸屋敷で、藩士の子として生まれた。本名を七五三太(しめた)と言う。女子が4人続いた後、初の男子が誕生して、祖父が思わず「しめた」と大喜びした事から命名されたという。
元治元年(1864年)21歳のとき、国禁を犯してのアメリカへ渡航を画策する。函館から米船ベルリン号で出国する。船長にJoe(ジョー)と呼ばれていたことから、以後その名を使い、帰国後は漢字を当てて「譲」、「襄」という名にした。アメリカ滞在からの活躍はまことに興味深いが、省略する。
明治23年(1890年)、同志社大学設立運動中に倒れ、静養先の神奈川県大磯の百足屋旅館で亡くなった。46歳という若さであった。「新嶋襄先生終焉之地」という徳富蘇峰の筆になる石碑が、東海道の鴫立庵の並びに立っている。ここに百足屋旅館があったらしい。
照ヶ崎に緑鳩(アオバト)を見に行ったのだが、春の嵐で海が荒れ、鴎の姿しかなかった。いつものように、地福寺、鴫立庵に寄った。
満ち潮の波が牙剥く春一番
みどり立つ春先駈けの潮かな
葺替を終へて春待つ鴫立庵
咲き満ちてさみしかりけり地福寺の藤村夫妻墓の白梅
さみしさを少しまぎらすごとく咲く墓地片隅の緋寒桜は
傾きて砂を積み込む船の音釣糸垂るる港にひびく
アオバトの訪ふ余地もなし海荒れて海石(いくり)隠せる
春の白波
海荒れて波高けれど寄せくるはみどりのうしほ春の先触れ
療養先百足屋旅館ありしとふ新島譲(ゆづる)終焉の場所
潮風に吹かれふかれて痩せにけり西行法師笠懸けの松