天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

箱根・早雲寺

北条五代の墓

 久しぶりに来てみた。以前にも紹介した部分があるが御容赦を。
この寺は、伊勢新九郎北條早雲の遺言により、1521年に息子の氏綱が建立したもの。皮肉にも、後に豊臣秀吉が小田原北條氏を攻める際に本陣としたところであり、石垣山の一夜城が完成するや火を放って灰燼に帰せしめた。再建は、江戸時代の元和・寛永期であり、小田原北條氏滅亡から82年後のこと。写真の墓は、手前から、早雲(1432〜1519)、氏綱(1486〜1541)、氏康(1515〜1571)、氏政(1538〜1590)、氏直(1562〜1591)の順である。最後の氏直は、享年30歳という若さであった。この地は、室町時代の漂泊の連歌師飯尾宗祇(1421〜1502)が逝去した場所でもあり、墓地には、宗祇の墓と呼ばれている供養塔がある。庭には、有名な「世にふるも更に時雨の宿りかな」という句の碑が立つ。また近くには小田原出身の現代俳人・藤田湘子夫妻の墓もある。


      蜂の巣が行く手をはばむ山路かな
      薮蚊出でて長居ゆるさぬ早雲寺
      早川の浅瀬をわたる裸足かな


  北條氏五代の墓を訪ねけり欄干朱き橋を渡りて
  早川の瀬音絶えざる川岸に鮎釣人を今朝はまだ見ず
  震災に遭難したる登山家の遺品なりけりヒマラヤ杉は
  ふとぶとと庭の地中に根を張りし楠の木四本早雲禅寺
  蝉出でし穴あまたあり庭の木の梢に蝉は鳴きさかるかも
  小さくも闇ふかければ蝉出でし穴のぞき見る吾ならなくに
  交尾せし雌はいづこに産むならむ蝉は地中に七年くらす
  この寺の庭の木立に棲みつげるヒメハルゼミ系図おもほゆ
  漂泊の連歌師の涯(はて)をここと知る早雲禅寺のつくつく法師
  ひとところ欠けしかはらけ置かれたり黒曜石の俳人の墓
  早川の浅瀬にあそぶをさな等の黒き裸を見るはたのしも
  早川の水面を黒き影よぎる何鳥ならむ山に入りたり
  早川の水に出湯もまじるらし岩の狭間に白くよどめる
  砲撃の音とし思ふ底ごもり箱根の山の奥ゆきこゆる
  降りきらぬ客押し分けて乗り込みぬ冷房きける小田急電車