天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

北村透谷

小田原城にて

 小田原城跡の馬出曲輪の一画に、「断崖づくり」の立派な北村透谷顕彰碑がある。またJR小田原駅近くの高長寺には、彼の墓がある。前から気になっていたので少し調べてみることにした。小田原文学館に行って次のような紹介文を読んだ。
 明治元年〜27年(1868〜1894)。詩人、評論家。小田原城唐人町に生まれる。奔名門太郎。北村家は元小田原藩士の家系であった。透谷は幼少期を小田原で過ごし、明治14年家族と共に東京へ移転。小学校卒業後の透谷は、自由民権運動にも興味を示すが、18年頃から文学の道に進むようになる。20年石坂ミナと熱烈な恋愛に陥り、その苦しみのなかでキリスト教に入信、翌年結婚。22年代表作の一つ『楚囚之詩』を自費出版。26年島崎藤村らと「文学界」を創刊。『内部生命論』などの評論で、日本近代文学の最初の潮流としての浪漫主義運動の先駆となる。小田原にはその後23年に早川、26年に前川と、それぞれしばらくの間仮寓した。代表作には評論『厭世詩家と女性』、評伝『エマルソン』、劇詩『蓬莱曲』などがある。27年自宅の庭で自殺、墓所は高長寺(城山)にある。
 自殺の原因は、絶対平和主義の思想に共鳴した心が、日清戦争前夜の国粋主義と相容れず、精神に変調をきたしたことにあるらしい。透谷の作品群は、ロマン主義的な「人間性の自由」という地平を開き、以降の文学に対し、人間の心理、内面性を開拓する方向を示唆している、という位置付けであるらしい。


  昨夜吹きし風の行方をさし示すあけぼの色のグラジオラスは
  透谷の生誕の地を探しては唐人町をわがさまよへり
  子を膝に抱ける写真の残りたり自死に至れる幾日前の
  藤村の筆跡ほそき透谷の顕彰碑あり断崖づくり
  残されし一人娘の揮毫せし「北村透谷生誕之地」は
  階段の石の狐ににらまれて蝉鳴く杜にまぎれ入りたり
  卒塔婆はひとつもあらず稲荷社の青葉供へし透谷の墓