天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

由比ケ浜(1)

鎌倉・由比ケ浜

 鎌倉市若宮大路に並行して流れる滑川が海に出るところの右手に広がる海岸である。左手に広がるのが材木座海岸。特に鎌倉時代に、由比ケ浜でいろいろな歴史的事件が起きた。静御前が産んだ義経の子を、頼朝が部下に命じてこの海岸に沈めて殺したこと、和田義盛がここで戦死したこと、実朝が陳和卿の提言に応じて唐船をここに建造したが海に浮かべることができず結局朽ち果てたこと、新田義貞軍がここで戦って鎌倉幕府を滅ぼしたこと。中でも実朝と唐船建造の話は、実務に全く疎い歌人将軍を象徴していて、気の毒なくらいである。そのくだりを『吾妻鏡』から引いておこう。

1216年 (建保4年・丙子)11月24日 癸卯 晴
   将軍家先生の御住所医王山を拝し給わんが為、渡唐せしめ
   御うべきの由思し食し立つに依って、唐船を修造すべきの由、
   宋人和卿に仰す。また扈従人六十余輩を定めらる。朝光これ
   を奉行す。相州・奥州頻りに以てこれを諫め申さると雖も、
   御許容に能わず。造船の沙汰に及ぶと。

1217年 (建保5年・丁丑)4月17日 甲子 晴
   宋人和卿唐船を造畢す。今日数百輩の疋夫を諸御家人に召し、
   彼の船を由比浦に浮かべんと擬す。即ち御出有り。右京兆監臨
   し給う。信濃の守行光今日の行事たり。和卿の訓説に随い、
   諸人筋力を尽くしてこれを曳く。午の刻より申の斜めに至る。
   然れどもこの所の躰たらく、唐船出入すべきの海浦に非ざる
   の間、浮かべ出すこと能わず。仍って還御す。彼の船は徒に
   砂頭に朽ち損ずと。