天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

妙本寺・袖塚

妙本寺にて

 5月3日の短歌人・横浜歌会で、岡田みゆきさんがこの鎌倉・妙本寺の袖塚の歌を詠んでいた。今までに何度もこの寺には行っているのだが、袖塚については知らなかった。不明を恥じるしかないが、自分なりに歌にしてみようとあらためて訪ねた。


吾妻鏡』で歴史を見ておこう。
 1203年 (建仁3年 癸亥)8月27日 壬戌の項に、
「将軍家御不例縡危急の間、御譲補の沙汰有り。関西三十八箇国の
 地頭職を以て舎弟千 幡君(十一歳)に譲り奉らる。関東二十八
 箇国の地頭並びに惣守護職を以て御長子一 幡君(六歳)に宛らる。
 爰に家督の御外祖比企判官能員、潛かに舎弟に譲補する事を
 憤り怨み、外戚の権威に募り、独歩の志を挿むの間、叛逆を企て、
 千幡君並びに彼の 外家已下を謀り奉らんと擬すと。」


と出てくる。これが「比企の乱」の勃発である。比企能員は謀殺され、比企一族は、彼らの館(現在の妙本寺の場所)で、北条軍と戦ったが、一日のうちに滅ぼされてしまう。
その様子が、9月3日 戊辰の項に次のように記されている。
「能員が余党等を捜し求めらる。或いは流刑或いは死罪。
 多く以て糺断せらる。妻妾並 びに二歳の男子等は、好有るに
 依って和田左衛門の尉義盛に召し預け、安房の国に配す。
 今日小御所跡に於いて、大輔房源性(鞠足)、故一幡君の遺骨
 を拾い奉らんと欲するの処、焼ける所の死骸若干相交りて求める
 所無し。而るに御乳母云く、最後に染付けの小袖を着せしめ給う。
 その文菊枝なりと。或る死骸の右脇下の小袖僅かに一寸余り焦げ
 残り、菊文詳かなり。仍ってこれを以てこれを知り、拾い奉り
 をはんぬ。源性頸に懸け高野山に進発す。奥院に納め奉る
 べしと。」


これによると、一幡の焼け残った小袖は、高野山奥の院に持っていかれたようである。妙本寺境内に「源頼家卿嫡男一幡君御廟所」という石柱が立っている。これには江戸末期の享和三年三月の日付が刻んである。この御廟所を俗に袖塚と呼んでいるが、これは象徴的な呼び名と思われる。まさか後日、高野山からお骨と小袖を取り寄せてここに埋めたわけではなかろう。
  
  比企ケ谷袖塚の由来聞きたればひとしほかなし著莪の花むら
  欲得に生きて骨肉相食みしもののふの世をあはれむなゆめ
  さみどりの高き梢にうぐひすの影うつろひて啼きにけるかも
  口せまく底の見えざるこの井戸に身投げせしとふ若狭局