天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

伝肇寺について

伝肇寺にて

 庭にある「伝肇寺と北原白秋の山荘みみづくの家跡」という説明板には、次のように紹介されている。


    伝肇寺は、正安2年(1300)に創建されたが、
   永徳年間(1381)に至って浄土宗列祖良肇和尚
   が、知恩院法脈を伝え樹高山西照院伝肇寺と
   号して関東最初の念伝道場とした。三世道誉、四世
   感誉両和尚は後に、増上寺九世及び十世に出世した。
   また往時は紫衣勅許の際は、この寺の
   添状を要した。このため伝肇寺は出世の寺の別称があった。
   戦国天正期(1587)頃になると、後北條五代氏直は、
   本寺十世の慮牛和尚に深く帰依し2万数千坪の寺領と朱印
   数通を与えている。
    また寺の境内には、詩人北原白秋が住居し、みみづくの
   家を建てたりして有名である。大正7年34才の北原白秋は、
   小笠原の生活を打切り小田原に移った。かれは自然と一体の
   生活を望んでいて本寺34世云隆和尚を頼り、境内に芭蕉
   好みの南方的な庵室、みみづくの家を建て、同15年東京に
   移転するまでこの住居で詩歌、論文、小説等を盛んに発表し
   文壇に華々しい活躍をした。特に小田原時代には「あわて
   床屋」「かやの木山」等の童謡を世に送り有名となったが、
   これは今日でも多くの人々に愛唱されている。北原白秋
   生地は九州筑後の城下町柳川で、当時これに似た町並みを
   持つ城下町小田原は深く白秋の心をとらえていた。
   このためか小田原住居中の文学題材はほとんど附近の風物に
   印象を得ている。
    白秋にとって小田原は、第二の故郷と言っても過言では
   なかろう。白秋は、昭和17年11月2日に没したが、
   この小田原を愛した詩人白秋の作品群は何時までも人々の
   心の中に光をともし続けるであろう。


 右上の写真は、本堂前の「みみづくの家」の碑である。
 白秋は結婚、離婚(松下俊子、江口章子、佐藤菊子)を繰り返して、夫婦生活は愛憎の坩堝のような感がある。みみづくの家においても白秋の親兄弟がからんで複雑な状況であったようだ。三番目の妻・菊子との間に長男・隆太郎が生れてから、やっと安定した。この辺の事情は、薮田義雄『評伝 北原白秋玉川大学出版部に詳しい。