天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

衣笠城址

衣笠城の跡にて

 衣笠山は、標高百三十四.二メートルの小高い山である。JR横須賀線衣笠駅から、この山を経て、衣笠城址まで歩いた。このあたりの桜はみな山桜で、すでに花の盛りはすぎていた。小高い尾根に、石の小さな祠とその前に二つの小さな狐の人形が置いてあり、後方の看板に「朝日さし夕日かがやく西山の稲荷の森は黄金なるなり」という歌が書いてあった。どんな謂れがあるのだろうか。
 衣笠城址から下山する途中に、寺があり、おばさんふたりから、甘茶をごちそうになってはと誘われたが、断って下山した。この日は、釈迦誕生の潅仏会であったのだ。なお、この寺は、「金峰山不動院大善寺」と称する。天平元年(七二八)に諸国行脚中の行基が、この山に金峯蔵王権現と自ら彫った不動明王を祭った時の別院として建立されたのが起源らしい。


    うぐひすの啼きやむ空に鳶の影
    城跡にいしぶみひとつ山桜
    寺のこる衣笠城址仏性会


  いづこより散りとびきたる花びらか白き斑をなす竹林の道
  やがて土に還らむ白さ竹林の道にちりたる山桜花
  昨夜飲みし酒のおもみを払はむと山路をゆけば鶯啼くも
  平家に勝ち北条に負けし三浦氏の衣笠城址山桜咲く


 衣笠城については、横須賀市教育委員会が立てた説明板がある。悪文で読みにくいが、そのままを以下に引用しておく。


  山麓の右を流れる大谷戸川と左手の深山川に挟まれ東に突き出た
  半島状の丘陵一帯が衣笠城跡である。源頼義に従って前九年の役
  に出陣した村岡平太夫為道が戦功によって三浦の地を与えられ、
  所領となった三浦の中心地である要害堅固のこの地に、両川を
  自然の堀として、康平年間(1058-1064)に築城されたといわれ、
  以後為継・義継・義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地で
  あった。
   治承四年(1180)八月、源頼朝の旗揚げに呼応して、この城に
  平家側の大軍を迎えての攻防戦は、いわゆる衣笠合戦として名高い。
  丘陵状の一番裾が衣笠城の大手口で、ゆるやかな坂を登って滝不動
  に達する。居館は水の便の良いこの付近の平場にあったかと推定
  され、一段上に不動堂と別当大善寺がある。さらに、その裏山が
  この城の最後の拠点となる詰の城であったと伝えられる平場で、
  金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。
  また、その西方の最も高い場所が、一般に物見岩と呼ばれる大岩
  があり、その西が急峻な谷になっている。要害の地形を利用して
  一部に土塁や空堀の跡が残っている。このように、この地一帯は
  平安後期から鎌倉前期の山城で、鎌倉時代の幕明けを物語る貴重
  な史跡である。