天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

『草枕』のモデル

わが身辺から

 夏目漱石草枕』のモデルについては、次のことがよく知られている。
   那古井の里=熊本市西北の小天温泉
   主人公の投宿先及び那美の住居=前田家別邸
   那美=前田家の次女・卓子(つなこ)
   観海寺=? 
この寺のモデルは、以下に述べるような事態にある。
 半藤一利漱石俳句探偵帖』(文春文庫)では、天草市内の明徳寺に違いない、としている。訪れて見て観海寺境内とそっくりな景物という。
 他方、坪内稔典、あざ蓉子『漱石・熊本百句』(創風社)の「小天温泉の旅」(井上知重)には、那美のモデルになったとされる前田家の次女・卓子(つなこ)の話として、観海寺のモデルは岩戸山の霊巖禅寺ではないか、としている。そこの住職が漱石が宿泊した前田家によく遊びに来ていたという。
(注意: 井上知重氏の解説では、霊巖禅寺と言っているが、雲巖禅寺の霊巖洞から寺の名前を誤記したのではないか?)
 地図で調べると雲巖禅寺は小天温泉や前田家に近いが、天草の明徳寺となると一々船に乗らなければならない。『草枕』にあるように、観海寺住職の大徹和尚や主人公(余)が前田家の間をよく行きするには、雲巖禅寺がモデルとなったとする方が実情に合う。
 半藤一利氏は漱石の孫娘を妻にしている作家で、漱石のことに詳しい。それでつい彼の推理を受け入れてしまいそうになるが、よく吟味する要あり。他にも『草枕』の中の情景描写が八年前に小天温泉の旅した時に詠んだ句と照応している箇所がある、として俳句の例を挙げているが、和田茂樹『漱石・子規往復書簡集』 (岩波文庫)などで調べると漱石が四国の松山時代に作った句であった。


 書籍を調べていると些細な事柄が気になって裏付けがほしくなり、そのために本を買い足すので家を狭くしてしまう。