鑑賞の文学―蕪村と漱石ー
夏目漱石の俳句・俳句感について詳細を調べているが、その過程で気づいたことは、漱石は与謝蕪村の影響を強く受けているということ。そもそも漱石は正岡子規に引きづられて俳句を作り始めた経緯があり、その子規は当時いち早く蕪村の俳句を芭蕉よりも称揚したという背景から、漱石も蕪村を学んだであろう。ふたりは漢詩を得意としていた。蕪村には『春風馬堤曲』があり、これは俳句と漢詩文を交へた一種の自由詩であった。俳体詩とも呼ばれる。対して漱石は自作の俳句や漢詩を小説に持ち込んだ。その代表作が「美を生命とする俳句的小説」と自解する『草枕』。
俳句について二人の共通点をいえば、物語の場面を作品に投影している。つまり想像句である。以下に例を三句ずつあげよう。
[蕪村]
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
高麗舟のよらで過ゆく霞かな
指南車を胡地に引去ル霞哉
[漱石]
弁慶に五条の月の寒さ哉
山伏の並ぶ関所や梅の花
六波羅へ召れて寒き火桶哉
今回改めて『草枕』を読んでみて、切れの良い文章の読み易さと独自性に感心した。そして最後の一節にきて泣かされた。むかし最初に読んだ時にはさほどでもなかったのに。
戦地に行く久一を従妹の那美さん、老父と共に主人公が駅で見送る場面である。那美さんから絵を描いてと頼まれていた絵描きの主人公は、那美さんの表情に何かが足りないので描けない、と言っていた。久一を載せた汽車が動き始めた時、最後の三等列車に那美さんと離縁していた男がやはり戦地に行くべく乗っていて窓から顔を出したのだ。ふたりが思わず顔を見合わせた。
以下に本文を引く。
「その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない
「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ!それだ! それが出れば画になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中
の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。」