天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

挽歌―茂吉と隆―(1/4)

茂吉(左)と隆(右)

別離にはいくつかの場面がある。転勤、失恋、離婚、出征、死別など。このうちの死別には、寿命からくる老衰死、病死、戦死、事故死、自死、刑死などに伴う別れがある。死別に際して詠まれる歌が、挽歌・哀傷歌であり辞世歌である。ここでは、肉親への挽歌につき、現代前衛短歌を牽引した岡井隆の作品を中心に、斎藤茂吉の近代短歌と古典和歌などを引き合いに出しつつ、表現の共通点や変遷を探ってみたい。
斎藤茂吉の場合
茂吉の挽歌は、歌集『赤光』「死にたまふ母」に代表される。ここでは大正十年一一月の改選版につき、特徴をまとめる。
先ず、連作として工夫されていること。其の一(一一首)、其の二(一四首)、其の三(一四首)、其の四(二0首)の四部作で、計五九首からなる。その短歌表現の特徴は、一連の作品を見れば一目瞭然であり、既に指摘されていることだが、次のように要約できる。
(一)母に対する尊敬語、とくに「たまふ」の使用頻度が、其の二に
   おいて顕著である。
(二)「母」を含む語句が頻出。挽歌なので当然と言えるが、
   次のような多様性がある。
   「母のいのち」「母が目」「母が顔」「母の国」「母にちかづく
   汽車」「死に近き母」「たらちねの母」「ははそはの母」「我が母」
   など。これら「母」は、全五九首中に二四回出ている。わけても、
   臨終を詠う其の二には一一回と最多である。
(三)心情語「悲」「寂」を含む言葉が形容詞、動詞、名詞などとして
   頻繁に使用され、重要な役割を担う。
(四)語句のリフレインが多く、韻律を整えている。後の岡井作品との比較
   の所でいくつもの例が出て来るので、次には三例だけあげる。
   *のところにコメントする。(五)でも同様。
 灰のなかに母をひろへり朝日子(あさひこ)ののぼるがなかに
 母をひろへり


 山ゆゑに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの母よ 
 火のやまの麓にいづる酸(さん)の湯に一夜(ひとよ)ひたりて
 かなしみにけり
 *この歌など「ひ」の上下句の頭韻、及び「ひ」「の」「に」のリフ
 レインが悲しみに収斂して、陶然とさせられる。
(五)連作としての工夫がなされている。其の一は「帰省」、其の二は
   「臨終」、其の三は「火葬」、其の四は「出湯」とストーリィが
   展開する。歌の間にも以下の例のような工夫を見る。
 我が母よ死にたまひゆく我が母よ我(わ)を生まし乳足(ちた)らひし母よ
 のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の
 母は死にたまふなり
 *並んだ歌だが、「乳足(ちた)らひし母」を受けて「足乳根(たらちね)
  の母」とする。
 火のやまの麓にいづる酸(さん)の湯に一夜(ひとよ)ひたりて
 かなしみにけり
 湯どころに二夜(ふたよ)ねむりて蓴菜(じゆんさい)を食へば
 さらさらに悲しみにけり
 *これら二首の間に、十首が挟まっているが、一夜と二夜が呼応して心地よい。
(六)万葉集を重んじた歌人らしく、「うら悲し」や枕詞、上代語法
   などが目立つ。
岡井隆の場合
岡井隆は長男で、弟と妹の三人きょうだい。父・弘、母・花子は、共にアララギに所属する歌人であり、キリスト教の信者でもあった。その影響で隆も短歌を詠むようになり、キリスト教会から洗礼を受けた。父母と時折対立することはあっても親子間の会話は絶えることなく、両親の死去の際にも医師として看取っている。両親を詠んだ歌は、多くの歌集に見られるが、父の歌は歌集『人生の視える場所』に、また母の歌は歌集『歳月の贈物』において、最も頻度が高い。それぞれ父母が亡くなった年を含んで歌集が制作されているからである。
斎藤茂吉の場合と比べると様々の面で違いがある。先ず母の挽歌について言うと、茂吉が連作にしてその構成を何度か推敲し改変しているのに対して、岡井の挽歌は一カ所にまとまっておらず、回想の中で葬儀の時の情景がリアルに詠まれていたりする。次項で作品を対比すると、岡井も連作のようだが、違う。また茂吉の場合、肉親の挽歌といえば、「死にたまふ母」があまりに有名だが、実父・守谷伝右衛門では二首、長兄・広吉では七首にとどまる。それが岡井(以下、隆とすることも)では、弟や妹の挽歌をかなりの数詠んでいるのである。