身体の部分を詠むー爪(1/2)
爪は、表皮の角質が変化・硬化して出来た皮膚の付属物だが、指先を保護して
おり、動物にとって重要なもの。爪に関連することわざ・慣用句が多い。
爪に火を灯す、(能ある鷹は)爪を隠す、爪を研ぐ 等々。
それもいさ爪に藍しむ物張りのしばしとりおくたすき姿よ
拾玉集・慈円
*「これはまあ、どうだろう。爪に藍の染料を染み付かせた物張りが、ちょっとの間する、襷姿よ。」
ぢつとして、蜜柑のつゆに染まりたる爪を見つむる心もとなさ!
酸漿(ほほづき)の赤き袋のぬれそぼつ庭ひえびえし爪切りをれば
結城哀草果
みづからの意志にあらぬを爪のびて汚(きたな)しと嘆き憤(いきどほり)りゐぬ
前川佐美雄
光れるは爪と毛髪 露台にて薄き毛布をわれは纏へり
葛原妙子
白きものこほしめばここに足袋(たび)美し爪のかたちもああつぶさなる
香川 進
差押へ受けたるつひのやすらぎのあやしきまでに今宵爪を切る
足の爪きれば乾きて飛びけりと誰(た)に告ぐべしや身のさかり過ぐ
宮 柊二
夜ふけて脳をついばむ月よみのさびしき鳥よ爪きらめかせ
*夜更けて月明りの中で餌の小動物の脳をついばんでいる鳥を詠んだようだ。
うつしみの十指の爪を摘みしかどむらぎものうちまだ爪のある
田井安曇
*むらぎも: 五臓六腑 (ごぞうろっぷ) 。指以外にも爪のある臓器がある、
といっているようだ。枕詞として「むらぎもの」は、心にかかる。
身体の部分を詠むー舌(2/2)
巴旦杏を食(は)みたる舌のくれないのひと恋しさは術(すべ)なかりしを
佐伯裕子
*巴旦杏: スモモの一品種。実は大形で先がとがる。
鉛の毒に舌もつれおりて戦後を基地の塗装工たりしと聞けり
永塚恒夫
夜のたたみ月明りして二人子はほのじろき舌見せ合ひ遊ぶ
*子供の舌がほの白く見えたのは、もちろん月明りのせい。
眼をとじて耳をふさいで金星がどれだかわかったら舌で指せ
穂村 弘
*なんとも奇妙な情景だが、このような遊びがあるのか?
薔薇一本剪らねば何も変はらなかつたのだろうか舌尖(した)がしびれる
兵頭なぎさ
*言い争いでもしていたのであろう。ものの勢いで薔薇を一本伐ってしまったようだ。
口中にひらひら間なくひるがへる舌赤きゆゑわれは信ぜず
松阪 弘
*上句からは、二枚舌を想像させる。
はなみづきぺりかんの嘴 ひとの舌ほどにひねたる進化にあらず
浜田昭則
やはらかき舌に一語を遊ばせてあをきひねもすしぐれてゐたれ
大谷雅彦
*短歌を推敲して一語にこだわって一日中しんみりと過ごしたようだ。
身体の部分を詠むー舌(1/2)
舌(した)は俗語でベロとも呼ぶが、動物の口の中にある器官で、食物を飲み込む時、言葉をしゃべる時などに使われる。舌は喋ることの象徴であり、「二枚舌」、「舌が回る」などの表現がある。
猫の舌のうすらに紅(あか)き手ざはりのこの悲しさを知りそめにけり
舌を刺す鰯(いわし)を分けて喰ふ夕餉妻にたぬしき事もなからむ
近藤芳美
日本になほたのしみて葡萄吸ふ老婆ら、赤き舌ひらめかせ
*「赤き舌」がなんとも不気味で艶めかしい。
とめどなき舌のそよぎに聞きほれて妄想びととある日をりけり
片山貞美
*相手は妄想からさまざまな話を作者にしたのだ。作者には、とめどない舌のそよぎとして印象に残った。
朝鳥の来鳴く欅の窓を近み四十雀の小さき舌見ゆるなり
冬木らはののしる舌を持たざればわれを居らしむ心しづかに
川田 順
*「ののしる舌」という表現から、作者はなにかこころにやましいことを抱えていたのだろうか。
けだものの舌のひびきのやさしくて眠りのうちらあへなくひとり
小野茂樹
*あへなし: 張り合いがない、あっけない。
嬰児は舌くぼめつつ出入(だしいれ)すいまだ意識の無かるならめど
宮 柊二
身体の部分を詠むー歯(3/3)
桃よりも梨の歯ざはり愛するを時代は桃にちかき歯ざはり
わが朽ち歯治しくれたる老医いふ来りてなほもわれを頼めと
北沢郁子
なきがらの歯の美しと悲しみしことありしかど誰が歯なりけむ
竹山 広
*長崎で原爆死した人たちを見た時の思い出であろう。
斯くしつつ命終らん三四本残る歯のうち一本を欠く
佐藤志満
肉色の入歯を持ちて師は言いぬ「佳い歌だけど面白くない」
毛利文平
*師が歌の批評をしたときに、師の肉色の入歯が目立ったのだ。少し憎しみの感情が入ったのかも。
美しく義歯は並べり義母なれば義の字ふたつを思いつづける
足立昭子
臼歯二つ次ぎて易々脱落す吾よりさきに世の務め終へて
小暮政次
*臼歯: 哺乳類の上下両顎の左右最後部に位置する歯をさす。
暗く開(あ)く土間入りゆくに鎌を研ぐ伯父の歯白くわれを迎へき
金戸紀美子
歯型にて本人確認するといふ歯はさびしくてそを磨きをり
大口玲子
*作者は本人確認される立場なのだ。あらためて歯磨きをしておく必要あり。
世界言語交換し合ふ人類の白き歯見ゆるエアターミナル
香川ヒサ
*空港ではさまざまの言語が飛び交う。開けた口から、それぞれの白い歯が見える。
身体の部分を詠むー歯(2/3)
苗代の泥濘の中にひと日ゐて日の沈むころ虫歯が痛む
板宮清治
白き糸 糸切歯に糸きる姉のうつむくは首討つにたやすきすがた
水城春房
*糸切歯: 糸をかみ切るのに用いるところからきている。犬歯とも言う。
抜けし歯をつぐなふこともなき月日ものぐさはまた老をふかめゆく
木俣 修
磨く歯もなくなれる口をもてあます寒朝をひとより早く眼ざめて
木俣 修
寝(い)ねんとして外す入歯(いれば)は怪(け)のものかたましひ持たぬ
銀(しろがね)ひかる 木俣 修
*口から外した入歯をじっと見ているときの感想。
満口に泡立たしめていまみがくところを義歯とおもふ感情よ
前歯もて手袋を脱ぎししぐさなど思はれて恋ほし雪の降る日は
大西民子
*離婚した夫と共にあった昔の夫のしぐさであろう。
アルプスのごとく尖りし歯で笑ふ子の描きし母も教室も夏
青井 史
ん万円かかるとふ歯に観念し残る吾が世の付加の価値とも
抜けし歯のごとく炎天に投げ出されわがうつそみは歩きだしたり
身体の部分を詠むー歯(1/3)
歯は多くの高等動物が持つ咀嚼するための器官で、生命維持には欠かせない。
歯の状態によって我々は、人生の進み具合に思いをはせる。また幼子のかわいさが歯に象徴されることもある。
うつせみの生(いき)のまにまにおとろへし歯を抜きしかば吾はさびしゑ
われを恨み罵りしはてに噤(つぐ)みたる母のくちもとにひとつの歯もなき
かりかりと噛ましむる堅き木の實なきや冬の少女は皓歯(しらは)をもてり
葛原妙子
清潔に一生とほさむ歯ぎしりもぼろぼろとすでに前歯朽ちたり
坪野哲久
*「清潔に一生とほさむ」ためには、「歯ぎしり」して我慢したことがいかに多かったかを下句からわかる。
頭はげし父より歯のかけし母親を老いたりとわが子供らは言ふ
柴生田稔
歯を直すどころではないとわがまこと言ひけむか妻は覚えてをりつ
柴生田稔
粥を待つ小さき口に歯の二枚あらはに吾児は掌をうちまてり
小名木綱夫
空をゆく花束を見ればさもしくなり歯を鳴らすわれは獣(けもの)のごとく
宮 柊二
*さもしい: 心が卑しい。あさましい。
吾が知らぬ行為ぞさびし白梅の蕾とふふむみどり子の歯も
相良 宏
もの言えば白き歯が見ゆ生えそめてはつはつ見ゆる白き吾子(あこ)の歯
村野次郎
*はつはつ: もの事のはじめの部分がちらりと現われるさま。ほのかに。
短歌における表記の効用(8/8)
◆漢字の成り立ち・分解
右左(みぎひだり)対象文字の例として木口小平は記憶せらるべし
『日々の思い出』
「讒(ざん)」の字の二十四掻画を数へつつ白紙のうへに書くことのなし
『草の庭』
月見草見むとひとりの言ひたれば笛吹く川の川原に出でつ
『静物』
*笛吹川と言わず。
くろぐろと葡萄のつぶは地を這へる葡萄前進、前進やまず
(匍匐前進というところ)
『滴滴集』
人にいふことにあらねどなにげなし躑躅と髑髏かんじ似てゐる
女の眉が媚(こび)にて女の鼻が嬶(かかあ) 女の口はわらへる如し
「太初(はじめ)にことばありき」あんめれ鉄砲水と水鉄砲はほとほと違ふ
「楽しむ」と「愉しむ」とありいつよりか愉しむの字をわれは嫌へる
『時のめぐりに』
「調教士」ならず「調教師」なることもはつか奇異なる感じをとどむ
入れ墨の辛き女を「妾(せふ)」と云ふわらはともいひわたしともいふ
*妾という字の原義から読み方に関心して歌に詠む。
身体の秘(ひ)のきはまりに末魔あり末魔断つこと断末魔なり
『山鳩集』
これの世に「牛耳る」ありて「馬耳(ばじ)る」なし対称性のくづれを言はば
「東北線土呂(とろ)のとなりは土々呂(ととろ)にて電車はつひに停まらぬところ」
『思川の岸辺』
「看山(かんざん)」といふことばあり立ちゐつつただひたすらに山を看(み)ること
『梨の花』