天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

大磯

大磯

 歌詠みにとって、大磯といえば、鴫立つ沢であろう。
   心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ澤の
   秋の夕ぐれ  西行

 『山家集』には、「秋ものへまかりける道にて」という詞書がついて、秋歌に入っている。これは西行陸奥へいった時、現在の湘南海岸で詠んだといわれているが、西行陸奥に旅したのは、二十七歳の頃と六十九歳の頃の二回ということははっきりしている。では、どの時期に詠んだのであろうか。窪田章一郎の見方では六十三歳以前というが、それでは二十七歳頃となり、二十三歳で出家したので、実に若い時期の歌になる。西行と昵懇の間柄であった藤原信実の著という『今物語』では、この歌が藤原俊成選の千載集にのるかどうか西行が奥州へ旅行中にえらく気にしていた、という逸話が書かれている。二度目の旅の歌をすぐに勅撰集に応募するとは、時間的に余裕が無さすぎる。ということで、この歌は自他共に認める名歌として、すでに知られていたと思われるので、出家間もない頃の陸奥の旅の途上でできた、という判断になろう。ちなみに、二度目のみちのくの旅で得た晩年の名歌が、小夜の中山で詠んだ歌
   年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山   西行
である。『山家集』の詞書には、「あづまの方へ、相知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの、昔なりたりける、思ひ出でられて」とある。そしてこれは俊成の息、藤原定家選の『新古今和歌集』に入集している。
 鴫立沢は、西行物語では、相模の国大庭郡砥上原(現在の鵠沼から藤沢あたり)に設定している。その後、大磯に変わったという。実際、晩秋になると、磯に鴫の群をよく見かけるので、湘南の海辺であることさえわかれば、それでよい。よけいなことだが、鴫といっても二十種を超える。
 近代の文学者で大磯に関係深いのは、島崎藤村である。その旧居が、加藤・星両家の管理のもと、今も大切に保存されている。藤村、静子夫妻の墓は、地福寺境内の梅の木の下に並んである。これは藤村自身が希望したことという。生まれ故郷の馬籠を墓地に選ばなかったのは何故であろう。判る気がする。


   遺言の墓は大磯藤村の梅の木に鳴くつくつく法師
   立ち上がり寄せてくだくる大波の岩に動かぬ一羽鵜の鳥
   丈高き堤防越ゆる大波のなだれ落つるは瀧のごとしも
   大波の寄せてくだけて地鳴りせり大東島を過ぐる台風
   公園のベンチび坐り日に干せり波に濡れたる靴とソックス
   靴の上にま白き足を載せて干すうなさか吼ゆる湘南の海
   海鳴りを伴ひてくる大波のくだけて白し黒き岩礁


       日本初の海水浴場照ヶ崎
       台風のきざす大波照ヶ崎
       台風のきざす海鳴り鴫立庵   
       つくつくし鴫立庵をあけ放ち
       待合せ日傘ふたつの松並木
       何事ぞ季節はずれの猫の恋
       猫の恋藤村邸は静かなり


 鴫立庵は、京都の落柿舎、近江の無名庵と並んで日本三大俳句道場であり、投句箱がある。ここを訪れる時はいつも投句している。庵主選による入選結果の載った鴫立庵たよりが送られてくる。草間時彦の後を継いで、現在の庵主は、鍵和田釉子。今回は、三句目と四句目を投じた。