天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

足柄古道

足柄古道の藤袴

 大和朝廷時代の東海の官道は、箱根を越えるのではなく、三島から御殿場、足柄峠、矢倉沢、秦野、伊勢原、厚木、二子、三軒茶屋赤坂見附へと続いていた。いわゆる矢倉沢往還(古東海道)である。そのうち足柄峠と矢倉沢の間を、現在では足柄古道と呼んでいる。舗装されている部分もあれば、山中に入って石畳の道もある。足柄の地名は、万葉集の東歌に多く出てくるし、下って更級日記にも足柄山を越えてゆく話が出てくる。ついでながら東海道が箱根を越えるようになったのは、八六四年(貞観六)の富士山大噴火以後のことになる。徳川家康以降に東海道五十三次のルートが整備された。
 以前に地蔵堂足柄峠間を往復したので、今回は、地蔵堂から矢倉沢へ出る舗装路を歩いてみる。
 大雄山駅から地蔵堂行きのバスが出る時間まで三十分あまり時間があるので、整備された狩川の岸を少し歩いた。万葉集の歌碑がふたつ間隔をおいて立てられている。次の歌である。

  足柄の箱根飛び越え行く鶴のともしき見れば大和し思ほゆ
                     万葉集巻七の一一七五
  足柄の八重山越えていましなば誰をか君と見つつ偲ばむ
                     万葉集巻二十の四四四0


地蔵堂のひとつ手前のバス停が足柄古道入口なので、ここから入ることもできるが、ともかく終点までゆく。地蔵堂から夕日の滝の方向へ歩き、金太郎の生家跡から左手に折れる道をとる。しばらく行って分岐点でまた左手の道をとる。ここからバス停の足柄古道入口に向けて歩いた。


        畦に立つ案山子と見れば農夫かな
        粧へる姿も丸き矢倉岳
        足柄のみのりの色や曼珠沙華
        旅人の心細さよ藤袴
        いにしへの足柄道も秋彼岸
        バス待ちて露草愛づる矢倉沢


   万葉の歌碑ふたつ見る狩川の流れの奥に矢倉岳立つ
   万葉の歌碑読みてゆく狩川の奥処に丸き矢倉岳見ゆ
   観月の邪魔になりたる松の枝を折り曲げしよりひぢ松の生ふ
   ちぎれたる蛇の屍のひらたきが赤く滲める足柄古道
   万葉の歌に詠まれし足柄のふる道たどるわたくしの秋
   病床に草花描きし子規思ひわが秋をゆく足柄古道