天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

昆布うどん

 出張の帰りに夕方新大阪駅で新幹線に乗り換える間に習慣になっていることがある。駅構内の立ち食い蕎麦屋で、昆布うどんを食べる。その後、駅弁として柿の葉鮨か鯖の棒鮨を買う。今日も同じである。熱い饂飩にだし汁をかけ、きざみ葱、おぼろ昆布そして申し訳ほどのぺらぺらのなるとを乗せて客の出す。三百七十円也。そこに七味唐辛子をうどんが隠れるほどふりかけて食べる。これより美味いうどんは、残念ながら食ったことがない。四国で食った本場の讃岐うどんも及ばない。
 今日買った鯖の棒鮨は、鯖の魚肉の厚みがご飯と同等くらいあり、脂がのって切り口も生のように新鮮であった。国産の鯖にこだわり、都合二昼夜ほど寝かせ、飯に合わせて黒板昆布で巻いたもの。国産の鯖は八戸、石巻、銚子の三漁港にあがるもの、とりわけ八戸産が良いという。秋から冬にかけて脂肪が十五%以上ついているのがよい。
 さて、行きかえりの電車の中では、先日買った、長谷川櫂著『一億人の俳句入門』を三分の二ほどまで読み進んだ。まことに明快。
*俳句には一物仕立てと取り合わせの二種類しかない
*俳句の切れには、句中の切れ以外に、前後の切れがあることを
 忘れてはならない
*俳句における比喩(特に直喩)は、十九世紀西洋の影響で
 近代以降さかんになった。古典俳句では、比喩の代わりに取り合わせ
 を活用した。
*季語は想像力の賜物なので、実際の季節とずれているとかの理由で、
 実態に合うように歳時記を改編するというのはまちがい。
*季語と地名(歌枕)の両方を俳句に取り込むことは禁物。
 焦点、感動が弱まる。
など、新鮮である。こうした立場から、あらためて芭蕉俳句を解釈しなおすことを、長谷川櫂が試みている。



         水鳥や干潟再生実験場
         立冬の顔に湯気まく昆布うどん