謎が詩を呼ぶ
穂村弘著『短歌という爆弾』小学館を以前買ったが、読みかけてほったらかしていた。面白くないと感じたことと、穂村弘の短歌をまったく良いと思わないから、ということもその理由になろう。
だいたい作品に品格がないのであり、自我が出過ぎるのだ。出張の余暇に読むのに本をきらしていたので、この本を持ち出し、第三章「構造図―衝撃と感動はどこからやってくるのか」から読み始めたが、割と良い指摘をしている。欠落、省略、隠蔽が謎を呼び、詩になる場合があるということである。
手をひいて登る階段なかばにて抱(いだ)き上げたり夏雲の下
加藤治郎
単三の電池をつめて聴きゐたり海ほろぶとき陸(くが)も亡びむ
岡井 隆
これらが詩になっているのは、謎を含んでいるからである。誰の手か、何に電池をつめたのか、書かれていない。一方、あいまいな場合はどうだろうか?
こんな日は連結部分に足を乗せくらくらするまで楽しんでみる
東 直子
こうした歌が歌会に出ると、必ずといっていいほど「こんな日」とはどんな日なのか、具体的にいったほうが良い、という批判が出る。具体的な日を入れるに場合には、よほどインパクトのある日でないと、ずっとつまらない歌になり下がってしまう。