天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌における〈私〉1

 角川「短歌」6月号の特集「〈私〉という主題の詠い方」について。今回の企画は失敗であった、と思う。あまり知識の無い読者が読むと、何が問題なのかよく理解できないはず。近代以前の和歌では、私性が乏しいことを前提にして論じているような印象を受ける。常識では文芸作品にはすべて私性が伴うものと思うのだが。私性のない作品とは、どのようなものか、例えば古典和歌の例をあげて対比させるべき。
 実は、『岩波現代短歌辞典』に、穂村弘担当の〈私性(わたくしせい)〉の項目があり、経緯が要領よくまとめられている。よって、今回の特集では、先ず初めに穂村の歴史的総括を載せ、それを踏まえて以降の評論を展開すべきであったのだ。穂村の結論は、常に新たな「私」の発見こそが歌の発見に繋がる鍵であろう、ということ。これは重要な真理である。編集者はこの観点から、各論のまとめ方を指示したらよかったのに。
 なお、武下奈々子選の秀歌五十首には、残念ながら虚構した〈私〉の歌は含めていない。これも片手落ちのような気がする。武下が意識的に落としたのなら、選歌の基準として、はじめに書いておくべきであった。


[補足]これでは、自問自答になってしまうが。
 私性のない作品の例を新古今和歌集からあげておこう。本歌取り手法が行過ぎるとこうなるのだ。春歌・上からいくらでも引けるが、わずらわしいので一例にとどめる。

  若菜摘む袖とぞ見ゆる春日野の飛火の野辺の雪のむら消え
                       前参議教長

本歌は、
  春日野の若菜摘みにや白妙の袖ふりはへて人の行くらむ
                       古今集紀貫之
  春日野の飛火の野守出でて見よ今幾日ありて若菜摘みてむ
                       古今集・読人知らず

これらを継ぎはぎして作った歌なのだ。「雪のむら消え」が唯一追加したところ。