短歌における〈私〉2
角川「短歌」6月号の特集「〈私〉という主題の詠い方」の中で、坂井修一が明治以降、西洋の自由平等や個人主義の影響を受けて、特に〈私〉の主体性を強く求めるようになり、短歌では与謝野晶子をその旗手としてあげている。それでは、古典和歌では、作品に〈私〉の主体性はなかったのか? 違うだろうと言いたい。
やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君
与謝野晶子
もの思へばさはの蛍もわが身よりあくがれ出づる玉かとぞ見る
和泉式部
和泉式部のこの歌にも十分に〈私〉が滲み出ている。奔放な恋をしたという面では、晶子より和泉式部の方がよほど強烈である。どこが違うかといえば、作品の〈私性〉にあるのではなく、〈品性〉にある。つまり慎みの程度にあるというべき。美意識の違いといってもよい。晶子のあからさまな表現は、平安貴族であった和泉式部たちには、醜い表現・嫌悪すべき表現と感じられていたはず。
このところの短歌私性論議の発信源は、岡井隆の次のようなテーゼにあるらしい。
「私文学としての短歌」
短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人、
ただ一人だけの人の顔が見えるということ。それに尽きる。
そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない
場合も)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現
として自立できない。
だが、この主張は芸術全般について云えること。短歌はわずか三十一文字の空間、語数が少ないだけに画一化・同質性に陥りやすいので、悩みが大きい。俳句では尚更である。それだけに、古典から現代に至るまでの作品を、技法面からも丁寧に総括することが大切。
以上のようなことから、件の特集の企画は物足りなかったのである。