天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(14)―

河出文庫

  大空は梅のにほひに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月
                藤原定家新古今集


塚本邦雄心と詞が華やかに伯仲し、志と技法とが相和して、まこと天馬空を行くやうな歌境を示してゐる。一首の意は譯するまでもない。例によつて梅花と春月の夢幻を題材に、いささかの誇張をまじへ、さらりと歌ひ流してゐるのだが、一語の無駄も寸分のゆるみもなく一首はゆらりと斜に立つて匂つてゐる。本歌を同じ新古今中、大江千里の「照りもせず曇り果てぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき」とする説があるが、「しくものぞなき」の興冷めなことわりに比べて、定家の作は玲瓏と無言である。また『美濃』はこの歌を、「大空はくもりもはてぬ花の香に梅さく山の月ぞかすめる」と改作せよとすすめてゐるが、『尾張』の言ふ通りきちがひ沙汰であり、本居宣長の定家觀が根本的に疑はしくなつてくる。(『定家百首』昭和48年6月)
[大岡 信]『句題和歌』にある「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき」(大江千里)が本歌。千里の歌は春の朧夜を素朴にたたえているが、定家の歌の場合は、夜空も霞むばかりの梅の香と朧月夜との組み合わせから生じる、けだるい春夜の官能性をつかんでいる。中古から中世へ、同じ朧月夜を詠みながらも、言葉による微妙な官能性の追求は、ここまで突っ込んだものになっていった。(朝日新聞折々のうた」1993年5月〜1994年4月)


 新古今集の先進性、わけても藤原定家や良経の前衛的詠み方を高く評価した塚本邦雄らしい鑑賞である。大江千里の歌には、感心しない。それを本歌とすることにも不満があるようだ。
『美濃』とは、本居宣長著の『新古今集美濃の家づと』(後に、「美濃の家づと」)のことで、寛政3年4月13日、美濃大垣の門人大矢重門に送ったものを書き加えて寛政6〜7年6月頃校正し、その後出版した新古今和歌集の注釈書。
尾張』とは、『尾張廼家苞』〔をはりのいへづと〕のことで、石原正明が、本居宣長の「美濃の家づと」の注釈に対し、自説を述べたもの。文政2年(1819)刊行。
 大岡 信は、本歌からの深化を、言葉の組み合わせによるものと具体的に指摘する。