天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

実朝、定家、後鳥羽院

ちくま学芸文庫版

 堀田善衛の『定家明月記私抄』を読み終わった。そこで気になり始めたのは、源 実朝に定家が与えた影響のことである。年表で見ると次のようなことになっている。


 建仁3年4月: 実朝、征夷大将軍に任ぜられる。弱冠12歳。
 元久2年9月: 定家が内藤知親を介して実朝に「新古今集」を献上する。
        これは最終版ではない。
        実朝14歳にして初めて12首の和歌を作る。
 承元3年8月: 実朝に請われて、実朝の歌に加点、併せて「詠歌口伝」
        (「近代秀歌」)をおくる。実朝18歳。
 建保元年11月: 定家が実朝に「万葉集」をおくる。この頃「金槐和歌集」成る。
        実朝22歳。
 承久元年1月: 実朝暗殺される。
 延応元年:  後鳥羽院隠岐で没する。
 仁治2年8月: 定家没する。


 実朝の歌には、本歌取りが多い。特に万葉集の人麻呂の歌が目立つ。本歌取りに関しては、藤原定家から贈られた「詠歌口伝」の中の次の教えによるところ大と思われる。
 「ことばは古を慕ひ、心は新しきを求め、・・・・・・古きをこひねがふによりて、
  むかしの歌のことばを改め詠みかへたるを、すなはち本歌とすと申すなり」
 斎藤茂吉の力作『源 実朝』を読むと、以上のことが多くの例歌によって実証されている。ただ、年表上からは、実朝が「万葉集」の完本を読んだのは、「金槐和歌集」がすでに出来上がった頃なので、おかしいではないか、との疑問が湧くが、茂吉の考察では、それまでは実朝は勅撰和歌集にのっている万葉集の歌を学んだのだということで、すっきり了解できる。
 茂吉には「後鳥羽院と源 実朝と」という評論もあり、後鳥羽院の御製を本歌取りしている歌も多いことを、やはり多くの例歌をあげて論じている。並べて比較しているので、大変わかり易い。面白いことに、実朝は定家を歌の師匠にしたのだが、定家の歌をほとんど本歌にとっていない。
 以上のような経緯を知ると古典和歌の学び方・作り方が、実によく理解できる。藤原定家を高く評価した現代前衛歌人塚本邦雄は、どこかで「短歌は全て本歌取りである」と極論していたと思うが(追伸参照)、古典和歌のようなあからさまな本歌取りは、現代短歌ではさすがに流行らない。


[追伸]塚本邦雄花月五百年』講談社文芸文庫の中の「本歌取りについて」