天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌における〈私〉3

 前回、短歌の私性を論じるには、技法面からも見ることが大切と述べたが、もう少し具体的に説明しておこう。前々回に補足した「本歌取り」について。しつこくなるが、まず新古今集・春上からの例をあげる。


  かきくらしなほふるさとの雪のうちに跡こそ見えね春は来にけり
                      宮内卿
本歌は、
  かきくらし雪は降りつつしかすがにわが家の園に鶯ぞ鳴く
                      後撰集・読人しらず
  年暮れしなごりの雪や惜しからむ跡だにつけで春は来にけり
                      守覚法親王



  谷川のうち出づる波も声立てつ鶯さそへ春の山風
                      藤原家隆朝臣
本歌は、
  谷風にとくる氷のひまごとにうち出づる波や春の初花
                      古今集・源当純
  花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯さそふしるべにはやる
                      古今集紀友則



  春来ては花とも見よと片岡の松の上葉に淡雪ぞ降る
                      藤原仲実朝臣
本歌は、
  春立てば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯の鳴く
                      古今集・素性
  小塩山松の上葉に今日やさは峰の薄雪花と見ゆらむ
                      紫式部


こうして見ると、本歌取りという技法が、私性を消すのに力を発揮することがよくわかる。へたをすると現代では、剽窃と言われかねない。その典型が、寺山修司の作品に見られた。俳句を短歌に仕立てたのである。


      人を訪はずば自己なき男月見草    中村草田男
           ↓
  向日葵の下饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男
  

      燭の火を莨火としつチエホフ忌    中村草田男
           ↓
  莨火を床に踏み消して立ちあがるチエホフ祭の若き俳優


      紙の桜黒人悲歌は地に沈む      西東三鬼
           ↓
  かわきたる桶に肥料を満たすとき黒人悲歌は大地に沈む


      わが天使なるやも知れず寒雀     西東三鬼
           ↓
  わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る

最も有名な例として。

      一本のマッチをすれば湖は霧     富澤赤黄男
      めつむれば祖国は蒼き海の上     富澤赤黄男
      夜の湖ああ白い手に燐寸の火     西東三鬼
           ↓
  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
  

 寺山修司の歌の〈私〉は、虚構の〈私〉であるが、その根拠のひとつにこうした本歌取りの手法がある。