天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

スポーツを詠む(2)

定国の相撲図(部分)

 奈良県北葛城郡当麻町当麻に當麻蹶速(たいまのけはや)塚がある。垂仁天皇の時代、相撲の起源とされる、當麻蹶速(たいまのけはや)と出雲の野見宿禰(のみのすくね)の力くらべで敗けた蹶速を追善してつくられた五輪塔と蹶速の姿を彫った碑である。
 相撲は、古事記日本書紀の神話時代から力比べの格闘技として現れ、我が国の国技になったので、先ずはこれを例に取るのがベストと思う。
 和歌では、狂歌の世界になるが、次のような例がある。


  手なれせし手を蟷螂の小野川やかつも車のわっという声
                   朱楽菅江(あけら かんこう)
  谷風は負けた負けたと小野川がかつをより値の高いとり沙汰
                   太田蜀山人


俳句では、芭蕉(1644年―1694年)の句から。

      むかしきけちちぶ殿さへすまふとり


 句の意味は、源頼朝の武将・畠山重忠ちちぶ殿)が、東国一の力士を相手に相撲をとったという昔話を知っていないと理解できない。『芭蕉全句』には、相撲の句はこれ一句のみ。時代が下って蕪村(1716年―1783年)になると17句詠んでいる。

      よき角力いでこぬ老のうらみ哉
      二ツ三ツよき名たまはる角力
      角力取つげの小櫛をかりの宿
      白梅や北野の茶屋に相撲取


 小林一茶(1763年―1827年)は、更に多くの相撲の句を詠んでいるが、ここでは省略する。なお、1765年―1838年間に編集された川柳集「誹風柳多留」には、かなりの数がでてくる。

 明治以降の短歌では、斉藤茂吉が贔屓の出羽ヶ嶽を詠んだことは有名。その入れ込みぶりがよくわかる。


  一隊の小学児童が出羽ヶ嶽に声援すれば我が涙出でて止まらず
  五つとせ余りの内にかく弱くなりし力士の出羽ヶ嶽はや
  絶え間無く動悸して我は出羽ヶ嶽の相撲に負くる有様を見つ
  木偶の如くに負けてしまへば一息にいきどほろしも今は思はず
  番付も下り下りて弱くなりし出羽ヶ嶽見に来て黙しけり