天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌と詞書とのコラボ(4)

ガザミ(地球博物館にて)

 「歌壇」8月号・岡井隆「夏越なごめど」の続きである。哲学者ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』の命題とのコラボをどう理解するか?
 

     「世界は様々な事実に分たれる。」
  淡すぎるあぢさゐが咲きこのごろは人がよく死ぬ
  なかを咲きつぐ


 ウィトゲンシュタインの命題は、1.2番のもの。1章の初めは、「世界は成立していることがらの総体である。」となっている。これに添って岡井の歌を解釈すると、紫陽花が咲き継ぐことも、このごろ人がよく死ぬのも事実のひとつひとつである。


 「言葉で語ることのできないもの。それは自らを開示する。」
  近づいて来るのは遠ざかりゆくものの影にすぎない
   夏越なごめど


 ウィトゲンシュタインの命題は、4.1212番のものであろう。岩波文庫版の訳では、「示されうるものは、語られえない。」となっている。その意味するところは、この世に存在するものは、たとえ言葉で語ることはできなくても、存在自体が自らを開示している、というまあ、当たり前のことであろう。
一方、夏越は、夏越(なご)しの祓(はらえ)の略。夏に流行る疫病を避けられるようにお祓いをすること。岡井の歌の結句は、目の前の情景は、夏越しの祓でなごやかではあるが、と言って上句につながる構造。夕方、沈み行く太陽に向かって歩いてゆく人の影は、逆にこちらに伸びて近づいてくるような感じがある。だが、命題との関係がつけがたい。難解である。


     「世界は私の意志には依存しない。」
  金子兜太 帰りて行きぬふたこと二言みこと三言むかし昔の
  言葉のこして


 金子兜太が残したむかし昔の言葉はどのようなものであったのか? それがウィトゲンシュタインの命題(6.373番)であったようにも思える。このコラボも解釈が難しい。ちなみに、俳人金子兜太歌人岡井隆には『短詩型文学論』(紀伊国屋書店)という共著がある。


[注]岩波文庫版の『論理哲学論考』(野矢茂樹訳)を買って
   きたのだが、岡井が使っている訳と違う。ただ、岡井が
   とりあげているウィトゲンシュタインの命題は、常識的な
   内容なので、難しくはない。