天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

萱草

二宮町吾妻山にて

 かんぞうはユリ科多年草。鬼百合に似た赤黄色の六弁花が咲く。はえる場所に応じて、ヤブカンゾウ、ワスレグサ、オニカンゾウノカンゾウ、ハマカンゾウなどがある。若葉は食用になるらしい。


  萱草の芽は焦げながら萌え出でぬ草焼きしあと霜のふらねば
                     松村英一
  萱草を甘菜と呼ぶことのこりつつ食ふは疎開の吾等のみなり
                     土屋文明
  尾瀬ケ原に吾は来しかば萱草の黄の連続が見えわたりけり
                     佐藤佐太郎
  萱草の彼方流るる夏の川見えぬ仏が矢のごとくゆく
                     安永蕗子


(追伸)

    甘草の芽のとびとびのひとならび  高野素十


この俳句は、高浜虚子が自然の克明な客観写生として高く評価したのだが、心にある理想を描くことを主張する水原秋桜子は、「草の芽俳句」として酷評・揶揄した。結果、秋桜子は虚子のもとを去ることになった。
 瑣末的な客観写生の句の代表として、よく例に引かれる。