現代俳句の挑戦
近代俳句の潮流は、正岡子規、高浜虚子の考え方から始まった。即ち、俳句の理念は〈花鳥諷詠〉にあると提唱、客観写生による自然描写の文学と定義づけた。市販の俳句雑誌をフォローすることは、今ではやめてしまったので、どのような先鋭な流れが出ているのか分らない。ただ結社誌「古志」は読み続けているので、そこから客観写生から離れて飛んでいる現代俳句の例をいくつも見ることができる。昔なじんだ飯田龍太や川崎展宏などの句風とは随分と変っていることに驚かされる。
「古志」は、主宰であった長谷川櫂さんの句風に惹かれて読み始めたのだが、その後を継いだ大谷弘至・現主宰の句風がさらに高く飛んでいることに感嘆している次第。大谷弘至さん自身の作品も第一句集時代からさらに高みへと向かっているのである。
大谷弘至さんの作品について以下に比較してみよう。
第一句集『大旦』(作者自選十句)
波寄せて詩歌の国や大旦
菅浦に残る雪あり田螺和
春の水大塊となりうごきけり
薄氷のいづこの道もお伊勢さま
菜の花や生まれかはりてこの星に
空深しふたたび花をあふぐとき
蝉の穴まばゆき朝の来てゐたり
われら住む家を映して水澄めり
神の留守預かつてゐる我らかな
落葉ふる奈落の底を埋むべく
「古志」二0一九年七月号(十五句より五句を)
凩をゆきて真つ赤な理想あり
深海は光の故郷鮫眠る
やらはるるあはれ小町も鬼と化し
この世にも花にもとほく梅探る
梅探るたらたらと墨うごくごと
第一句集時代は、リアリティが強く読者の共感を得やすい、と言えよう。対して最近のものでは、観念性・抽象性が強く取り合せが読者には直観できにくい。すごい!と感じるもののまともな鑑賞はできそうにないのである。
一世を風靡した客観写生による自然描写を離れて、主観重視の虚構写生に挑戦しているように見える。現代俳句のフロンティアを理解するには、俳句に対して持っている古い先入観を拭い去ることが先であろう、と反省している次第。
ところで現代短歌においては、俳句がまとってきたようなしがらみが、ほとんど無かった。主観中心の作り方は、俳句より早くから始まっていた。詳細を省き二例のみあげておく。
湿布薬にほはせて子が眠る夜 われははるけき雪野にすわる
小島ゆかり
いかなる生も敗北ならば、薬包紙たたいて寄せる白色の粉
加藤治郎